ジャーナリストの精神

   

報道人のモラルとはなにか。考えさせられる事件の裁判があった。奈良であった少年による「家族放火殺人」を「僕はパパを殺すことにした」という本で、少年の供述調書をコピーしそのまま出版した問題だ。その少年の精神鑑定を行った崎浜医師の調書を無断でコピーし、本にしてしまった。そのままであるから、当然崎浜医師が情報源であることは、誰にでも判る。果たしてこの行動は正しいのか。草薙厚子という人は報道の精神を判っているのだろうか。裁判で草薙氏は調書は公文書であるから、公開すべきという意見を述べている。この考えが既におかしい。少年による事件であり、全ての調書を公文書として、公開するという根拠は、報道人として、プライバシーについての考え方なのか。まして、週刊現代の記者と同行し、崎浜医師の留守の間に、許可なく写真撮影をした。そしてそのまま発表してしまった。この人のブログにその考え方が出ている。本当に本人のブログなのかと心配になる感覚である。

この人は本当にこの少年の起こした、放火殺人事件の背景を伝えたかったのだろうか。自分が目立ちたかっただけに思えるのだが。有田芳生氏は草薙氏の著作がなければ、少年が放火にいたる原因は解明されないと主張している。つまり父親の異常ともいえる暴力が、この事件の背景にある。自分のあとを継いで、医師にさせたいという思いと、離婚した少年の実母への、見返したいという気持ちによって、尋常でない暴力を振るって医師にさせるべく勉強を強制した。その事実をジャーナリストとして、伝えたいと考えるのは正しいとする。一方的な調書が全てとは思えない。それが例え少年による犯罪行為であったとしても、調書の公開は正しかったとする。おいおい待てよだ。何か間違っていないか。この放火殺人事件の注意深い報道からでも、その程度の想像は調書など見ないでも普通の人間ならだれでも想像できる。私はそれ以上の興味本位名細部を読む気もないが、この本が出た後でも、事件が起きた時からの想像範囲を超えては居ないと思う。草薙氏は、単なる虚栄心の強い、売名行為の人と見ていい。

草薙氏は居直ってその取材源を法廷で証言することも、ジャーナリストとして正しい行為だと主張する。そのことによって、崎浜医師が無罪に成ると考えている。つまり本人が知らない間に、盗んだのだ。こう言う考えらしい。自分が盗んだのは公文書だからかまわないと考えるらしい。まったくジャーナリズムの何たるかも知らない人だ。元法務官という立場を悪用して、精神科医の無用心な態度の隙をついて、鑑定調書を無断で写真撮影する。もちろん許可なくそのまま本として出版してしまう。当然の結果として医師が告発される。そうなれば、平気で取材源の医師の名前まで証言してしまう。ちょっとひどすぎないか。こんな人物を擁護する、有田芳生という人もいったいどういう人だろう。又取材源を公表することで、精神科医の無罪が勝ち取れるという論理らしいが、正当なものか意味が理解が出来ない。単に証言拒否をして、自分が罪に問われることを避けたのではないか。

ブログでは、浜崎医師以外の人からの情報源は見えないように書いたと、自慢げに書いている。その精神があるなら、調書をそのまま出すという雑誌の編集方針になぜ拒否をしないのか。「重大な少年事件が発生すると、直後には洪水のような情報が氾濫するが、一ヵ月も経たないうちに収束し、やがてまったく報じられなくなってしまう。その理由は少年法の壁に遮られ、取材者が情報を得ることができなくなるからだ。」としている。私は違うと思う。社会というが、すべてを飲み込んでしまうものだ。確かに残念な場合もおおいいが、その調整が出来なければ、人間というものは生きていけない。忘れたように見えても、神戸の少年事件。あるいは、受験生父親バット殺人。というだけで、あれではないか。と、とても辛い事件として、忘れられない人が多いいと思う。忘れてはいけないが、誰だって忘れたいのだ。

 - Peace Cafe