マチスの目になって
水彩人の搬入、陳列審査が終わった。水彩人展が無事開催できる運びになり、事務所としての役割が果せてよかった。出来る限りの事はやった訳で、後は見ていただいた、結果だけが全てである。10回展までの長い道のりが思い出され、暗くなった、上野公園の空を見上げた。月も星もなく、動物園のたぶん鳥の鳴き声が響いていた。何となく、飲んでゆくか。と言う事になった。このまま帰れる気分ではなかった。絵の話がしたかった。水彩人の行く末の事もあったけれど。それよりも今考えている絵の事を、話したかった。たぶん、この仲間でしか伝わらない絵の話がある。それは『マチスの目になって観る』ということの意味を、意見が聞きたかった。特に学者と呼ばれている、M氏の意見が聞きたかった。まあ、絵描きに学者呼ばわりは、要するに褒め言葉ではないのだが、それ以外呼びようがないほど、学者以上の学者なのだ。
私は、犬や猫や鶏を飼っている。子供の頃からの事で、そうしたものと一緒にいたいという、気持ちで暮している。所がそういう生き物を絵を描くなど思いも寄らない。絵を描く目で、猫を見たことがない。庭の木や畑の野菜など眺めていると、いつの間にか頭の中で絵を書いている。散歩をしていても、大抵は山や雲を見て絵を描いている。それは、紙に向かって描いているとき以上に、実際の絵を描いている。紙に向かうと、半分は作業が出てきて、ここの辺りを塗ってみたいな、絵を描く、私が絵を描くと考えていることとは、違うことをしている。この辺は色々あるが、別の事で。だから、私の頭の中では、無数と言ってもいい絵が、毎朝毎晩描かれていて消えてゆく。紙におかれることはない絵が、いくつもあって、中には一回も画面に置かれる前に、描き過ぎて飽きてしまった絵もある。
所が日々、親しんでいる猫を絵を描く目で見ない。猫の絵を描いて欲しいと、言われたら、言われないのだけど、もし言われたら、どうしようと変な心配をした。すると描けない。描きようがない。所が一つ方法が見つかった。『マチスの目になって観る。』これなら幾らでも描ける。自分の絵を描いているわけではないのだが、これならいける。子供の頃、人の顔が描けなかったが、へのへのもへじは描けた。図像で顔と決められていれば、顔らしい意味はかける。ところが、今見ている顔とは、それは又別物。目で見ている眉毛はどう描けばいいか丸でわからない。所が『へ』という字でそれは済む。マチスの目という、あるものの見方を、借りてくればなんでも描ける。所が自分の目では眉毛が描けなかった昔と少しも変わらず、猫が描けない。
これは文体というものとも大いに関係があると、推測している。堀田善衛氏の文章を読んでいると、文体というものがその思想を表現するためには、大きな要素であることが判る。意味不明や、難解部分こそが作者の息遣いである。絵で言えば、筆触のような、ものらしい。読んでいると流れるような速度になる所と、実に一語一語としてしか進めないところが出てくる。どうしても戻らないと意味の理解できない末尾が用意されていたりする。この逡巡のようなものに、作者の呼吸という抜き差しならない感じが宿る。この文体に乗ればかけるものがあるなと。マチスの目のすごさ。そこから出発できる幸せを感じた、20代であったが。今もって誰もがその先の目を見せていない。この時代を正確に見る目。これはさすがにマチスの目でも間にあわない。所で、この時代を見る目は誰の目であろうか。こんなことを、飲みながら語り合った。かけがいのない時間であった。