定額給付金への怒り
定額給付金が国会の論点になっている。何故これほど意味のない、無駄な政策を経済対策と主張するのか。国民に金をばら撒けば、幾らかでも消費するだろうと言う予測に基づいている。国民を馬鹿にした、許しがたい政策だ。日本には個人の貯蓄が1000兆円もあって、外国とは桁が違うと聞いた。保険も外国に較べて、加入者が極端に多いらしい。ともかくお金が消費に回らない。これは何故か。薄れたとは言えまだ根強く存在する、日本人の家の思想が背景にあると思う。自分一代で考えるなら、全てを使い切るしかない。宵越しの金をあの世まで持ってゆけない。所が、自分一代でなく次世代のことまで心配している。1000兆円が回るようにすればいい。このお金は貯金やら、保険やらで、どこかに貯まっていて、その使い道がないことが問題なだけだ。銀行の投資先がないだけだ。銀行が集めた金を使ったって消費は消費だ。貸し渋りなどと、国内の企業にも簡単には貸せない状況が続く。
税金を定額給付と言う形でばら撒けば、無駄使いするだろうという発想がいかにも情けない。こんなものは政策とは言えない。消費が起これば景気が良くなる。この発想では経済の全貌が見えなくなっている。一時しのぎの消費の増大より、本質的解決が必要な世界情勢。財政再建路線の始まりの、米100俵の例えどおりだ。無駄な公共事業を止める。日本は欧米先進国が300年かけて蓄積した公共財産を極めて短時間に追いついた。ある部分では追い抜いた。70年代フランスに留学した時、まだ蓄積の差を感じたが、それから30年。一気に追い抜いた。この戦後の60数年間日本は大変恵まれていた。この幸運な状況を日本人は、日本人の能力と思っている。幸運の一番は、教育に大きな投資ができたこと。日本の教育は問題の指摘の方が多いが、やはり総合的には世界最高水準にある。
子供が一人いれば、1000万円の所得の家庭は、納税額より公共が子供に使う費用の方が多くなる。欧米に較べれると、日本の一般市民の納税負担は正確な比較は知らないが、10分の一とも言われている。こうした状況が、一億総中流という国を作った。後に格差社会が始まるが、私の生きてきた60年間、前半は格差が減少する気分を味わえた。何故こうなったかといえば、国家の方角において、国と企業は護送船団方式で団結して、世界に挑戦した。国防については、アメリカという国の傘の下で、人的にも、経費的にも大きな負担をしないで済ませた。企業は輸出に専念して大いに利益を上げ、世界企業がいくつも出来た。一方、労働組合に対して、賃上げという形で妥協点を探ることで、対立を激化させないで来た。さらに、税金の集め方においても、一般市民からの徴収を極力抑える、公共投資の莫大な額の割には格安な水準で抑えられた。これではどうにもならないという事で、消費税が始まるが、これとて、5%にした時に国民は激怒して政権党は選挙に破れた。
こうした矛盾の蓄積が、国債を大量に発行して、一時を凌ぐ政策になった。最初は建設国債という範囲で、将来の人も使うのだからと言う事だったが。その後、どう解釈しようと、国債と呼ばれる借金が生活費にまで及び始めた。人口の増大期と、減少期の、読み違いがある。医療費の増大など国にとっても個人にとっても、大変な状況にある。一人の人が寝込んだ家族は地獄のような状況がある。そこで、不安で貯蓄しておく以外ない。これが、多くの日本人の心境ではないだろうか。税金は受益者負担という割には低額なのに。格差はどんどん広がる。日本の戦後を誘導した、官僚的な方向付けが終わった。官僚は先進国の先例のある道を歩むのは、得意である。公文学習方式みたいなものだ。回答があるなら、できる。ところが、もう先例のない、未知の分野を日本は眺めて立っている。こう成ると、政治の力が問われる。未来への創造力が育っているか。そして、日本国家の構想は立てられるか。こう成った時に、日本の総理大臣は安倍氏、福田氏、と簡単に諦めた。2度あることは3度あると言う事で、麻生氏も既に危うい。何しろ、公明党に導かれた、定額給付金を捨てられない。