竜王戦第1局

   

パリで渡辺竜王と羽生善治5冠が対戦した。この二人の竜王戦はこれからの将棋界において間違いなく、大一番である。それは将棋というゲームにとっての、大一番なのだと思う。一言で言ってしまえば、将棋がこの世に残るかどうかがかかったような戦いと言ってもいい。勝ち負けではなく、両者の戦いの姿の魅力が、今の時代にどのような将棋文化として、表現できるのか。羽生善治5冠は天才棋士。ずば抜けた記録を続けている。それ以前にそうした天才がいたとしたら、大山康晴氏ただ1人であろう。近い才能を持った棋士はいたと思う。多くの天才は夭折する。この2人はその才能を充分に開花させたという意味でも桁外れである。その羽生という天才棋士に続く者がいつ現れるのだろうという期待の中、登場したのが14歳年下の渡辺竜王である。渡辺竜王は竜王位に連続5期君臨し、時代を転換させる可能性を持った棋士として、認知されている。この渡辺竜王は今までいなかったような新人類棋士なのだ。

ブログをほぼ連日書く。負けたときは負けた精神状態を、勝ったときには勝った理由を書く。子供や趣味の競馬の事なども挟みながら、トップ棋士の勝負の中での判断の機微を書いている。その為に、将棋がぐんとおもしろくなっている。何故あの時あの手がさせなかったのか。これは勝負を通して一番知りたいことだ。今はインターネットでリアルタイムで勝負が中継される。これがなかなかおもしろのだが、このおもしろさは、相当に、たぶんアマチア3段程度の棋力がないと、味わえないおもしろさなのだ。だから、将棋人口はインターネットゲーム流行の流れの中で、取り残されてきている。これを乗り越えようとしているのが、渡辺竜王。人間の戦いを表現してゆくことで、新たな将棋文化を構築しようとしている。つまり、評論が成立する世界にしようとしている。ともいえる。

その好例が今回の梅田望夫氏のネット解説である。まだ残っているので、興味ある人は読んで見て欲しい。驚くことに、これがリアルタイムで書かれた記事なのだ。興味深い新しい試みとなっている。梅田氏はどの程度の棋力かは知らないが、当然、アマチアの人だ。今まで評論はプロ並に強くなければ出来ないと、思われていた。しかし、スポーツと同じで、人間の戦いである以上、アマチアであっても評論が深いと言う事がある。それは、素人が評論しながら、野球を楽しむのと同じことだ。スポーツ解説者という存在が、スポーツを支えている構図であろう。打たれた一球の意味を深く知る事は、解説があって始めてわかる。もしかしたら、長いペナントレースを考えた1球なのかもしれない。将棋も解説があって、興味が一気に深まる。しかもその一手の背景は、ただその一戦に勝つためだけではないかもしれない。そうした、もろもろの深さを表現できる解説が、文化として成立するかどうかに、将棋が生き残れるかがかかっている。

興味のない人には大げさなことだと思われるだろう。将棋世界に入り込むと、実に深い味わいがあるのだ。旧来の将棋界を代表する羽生5冠が、パリでの戦いを制した。羽生5冠はパリらしく芸術的な戦いをしたいと戦う前に、話した。そして、本当に、羽生マジックといわれる状態を作り出した。羽生以外の者なら、自分の方が有利と思う道筋に引きずって行く。そして、羽生だけがやれるはずと直感する逆転劇を演ずる。天才ならではの芸術的勝利を導き出した。2四歩の場面から始まる芸術。現在、コンピューターのソフトがプロの実力に急接近している。ソフトの一番苦手なのが、形成判断である。そうなれば自分が有利であると考え、間違える。ソフトは意外に自分に甘い。将棋はミスのゲームである。必ず間違って負ける。敗着のあるゲームだ。良い手を捻り出すより、間違えない手をさす、そして相手をが間違える手をさす。これが大切だ。

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