新聞の事
大阪の橋本知事が、朝日新聞を悪口ばかり書いている、といったそうだ。橋本知事も、何かとけちを付けるクセがあって、私と同類だと思っていた。新聞をとったことはないが、子供の頃は家で取っていた。読むのは好きだった。別に新聞が好きというのでなく、活字が印刷されていれば、何でも好きだった。文字を読むのが好きだったのだろう。学校の図書館では一番借りた人だった。実は新聞を信用しなくなった事件があった。まだ、小学校3年くらいだったと思う。近所で火事があった。不謹慎は当時も自覚していたが、もちろん火事と聴いて静かにしているなど考えられなかった。そうとう遠くても駈けて行った。材木屋さんが燃えた。それは火柱が高く上がって、盛大で後で夢でうなされるようだった。この火事が、新聞記事では全く違っていた。何を勘違いしたのか、一軒隣が火事になったことになった。
それ以来、新聞にも間違いはあると思うようになった。読まなかったのは、お金がないから新聞を買えなかった。学生になって家を離れてから以降、新聞を定期的に読んだことはない。別にそれで困ったことはない。農の会の野菜の宅配で新聞を野菜の包装に使おうとしたら、誰の家にも新聞が無かった。話がそれるが、スーパーのレジ袋をもらえば、大切に使っている。だから失礼ながら、買った商品は他の袋に入れるが、レジ袋をもらうことにしている。レジ袋もあれこれ役に立って、購入することもあるぐらいだ。たまに読む新聞に書いてある内容は実はおもしろい。別に読まなくても済んでしまうのだが、読めば面白いことが結構ある。だから新聞が置いてあれば、必ず読む。蕎麦屋さん、ラーメン屋さんでは食べながら読んでいて、マナーのない客だ。
新聞が今後衰退するだろうと、誰もが思っているだろう。それでも、無く成るとやはり困るとも思っている。インターネットでも、新聞社のホームページを含めて、情報をお気に入り欄に出来る限り集めてある。中には専門的なものもあるが、このことについてどう考えているか。例えば、弱毒のトリインフルエンザが、韓国で発生した。このことをどう考えておけばいいか。こう言う時に、あちこち探すことになる。新聞にはわずかも載っていないが。情報としてある所にはある。アメリカの金融崩壊について、どう読むか。これも新聞ではほとんど役に立たない。小田原の郊外で、小さな農業をやっている私にどう係るのか。こう言う事は、新聞には書いてない。つまり新聞には極小の情報はないし、特殊な対象向けの情報もない。最大公約数的な情報と言うのは、肝心なことの役にはたたない。役に立つ情報とは、同じことをより多くの人がどのように考えているかを、比較した時だ。とくに、この人がこの事をどう考えるかを知ると、役に立つ。高橋亀吉氏がこの株がどう動くかが情報。
新聞の本来の使命は、権力に対する批判精神だと思っている。それが報道に期待するところだ。それが健全な社会を形成するために不可欠な役割だと思う。北朝鮮のような国家では、権力を批判する、報道は存在しない。橋本知事は自分が権力者であると言う事を、理解していない。先日も家畜保険所の人に、あなたは権力者なのだ。こう発言した。激怒していた。私は家畜保健所になんら影響は与えられないが、家畜保健所は、私の鶏の飼い方に、命令を下す権利を持っている。だから、対等の会話のつもりでも、その発言が権利の乱用になることがある。何気ない一言で、止めて行った養鶏業者も知っている。橋本知事が、テレビタレントであった時はおもしろそうな、人目を引くことを発言していれば済む。むしろそれが役割であっただろう。今の立場はそうではない。報道のあり方にまで発言するなら、覚悟が必要だろう。
昨日の自給作業:脱穀8時間 書くのを忘れていた、草刈1時間 累計時間:27時間