わくわく交流会
昨晩、サポートセンターで、登録市民団体の交流会が開かれた。3回目の事らしい。分野別に企画されていて、今回は環境系の市民活動の交流と言う事だった。行政からも参加すると言う事なので、是非とも地域のごみ市民会議でも、活動を伝えたいと考え参加した。地域のごみ市民会議と言う名称になってからは新しいが、以前小田原ごみ問題研究会と言う形で発足して活動していた。その時期から言えば、10年以上になる。久野環境を考える会がダックの焼却場問題に取り組み、一応の結末を見た。その頃、国が溶融炉による、広域一括処理を打ち出してきていた。これからは、一般ごみの焼却場の事が必ず、問題になる。これを研究してゆこうと言う事だった。その後、山北の静岡県との県境に企画された、エコループという巨大焼却場問題が起こった。県もこのことが片付くまで、広域ごみ処理問題を凍結していた。さすがにこの計画は地元から拒絶され、頓挫する。そこで又、広域処理問題が再燃した。
広域処理のそもそもの始まりは、大きな炉で処理した方が、ごみは安全に、経済性でも有利に処理できる。しかも、単純な焼却ではなく、エネルギーの回収を行うような施設に出来るのではないか。このような技術革新変の期待があった。既に全国的には様々な方式が運用されている。その結果は、期待したように技術革新は進まず。先進炉の宿命として、事故の多発。経費の膨大化。予想外の公害の発生。様々なトラブルをかかえることになる。その中にも、有望な技術も存在して、今正に曲がり角にある技術と言える。そこで、今実施計画を立てている小田原で、どのような方式で広域処理に取り組むかは、市民にとっても見逃せない、重要な案件になっている。ここで間違った選択をすると、取り返しの付かない、財政的負担をかかえることになる。ごみの発生量の予測でも、現在の計画では減らないと見ている。これは人口減少が始まり、老齢化が起きている。ごみは一気に減少する時代が来ている。ここで大きなものを作れば、ごみが足りずに、他所から集めるとか、産業廃棄物を受け入れるとか。とんでもないことをすることになる。
わくわく交流会で、このことを行政と話したかった。交流したかった。2時間の交流会の内、何と1時間30分も行政の環境への取り組みの説明が行われた。これは、質疑のような時間を短くしたい、苦肉の策と思われる。又、この市の取り組みの説明が、おざなりで、私の係ってきた分野、例えば桑原や鬼柳のメダカや、久野の里地里山関連では、不完全な説明だった。残り時間の30分で、10団体を超えるグループが自己紹介をして、交流をしろ。では時間がない。行政の取り組みをアピールしたいなら、そういう場を他に設ければいい。市民活動の交流会の意味を、全く理解していない。いや、本当は良く判っている。市民に言わせたら要求ばかり出て、怖ろしいと考えての、巧みな戦略だった。こう考えて間違えない。
その意味では、サポートセンターが外部委託事業になったことが、こうした素晴しい企画を立ててくれることになった。以前、市民活動応援資金に関して、農業関係団体と行政の話し合いを要求したが、ついに実現しなかった。行政は市民と話すことが苦手なのだ。市民は利己的で、全体を見る視野ない、了見の狭い者だ。と言う先入観が行政サイドに存在する。これは間違っていない。しかし、その市民が行政を作っているのだ。市民が成長しなければ全てが解決できない。その成長の過程では、とんでもない意見も出るだろう。昨日も、農薬即悪と決め付ける団体のアピールもあった。そうした極端な意見が、通るものでない。市民活動の健全な成長こそ、これからの市民主体の市政に不可欠な物だ。行政が好きな環境活動は、自治会中心の美化活動だ。しかし、それだけに限っていては、今後衰退する。昨日も話題になったが、これを支えている層が老齢化して、会員が減少し、活動も限界に来ているそうだ。市民が自主的に活動している、行政にしてみたら、『やかましい』組織の活動をどのように生かすかが、行政の課題だと思う。