おくりびと
久し振りに映画を見た。感動した。素晴しい映画だった。日本映画ベスト10に入る映画だろう。「おくりびと」滝田洋二郎監督の映画だ。滝田監督の映画は以前見たものでは「木村家の人々」が印象に残っている。石井聰亙監督の「逆噴射家族」を思わせるブラックユーモアーで守銭奴家族の姿を描いていた。その後あれもこれもというように、エンターテイメント的に作っている。「おくりびと」については映画館で見ようと思った。死体という物を扱う映画を、家という日常で見ても、肝心の部分は感じられないだろうと思った。調べると小田原でも上映されていて、TOHOシネマだ。ダイナシティーの中にある映画館。量販店、スーパー、何でもかんでもある、所謂郊外型アミューズメント施設。初めて行く事になった。これが最新の仕組みのようで、インターネットでチケットは購入できるし、座席が指定できる。しかも、1人1700円の映画が夫婦は2人で2000円というチケットまである。座席もゆったりしている。音響も良い。昔の映画館とは大違いだ。
「おくりびと」を見たかったのは、死がテーマだから。「生をあきらめ、死をあきらむるは仏家一大事の因縁なり。」私も生臭い僧侶である。異形の者である。仏教者は生と死を見つめることを目的とし、死者と対面する目的で葬儀を始める。しかし、宗教としての仏教は形骸化し、死に対する宗教的救済は仏教の役割としては、失われている。死に対する伝統を失った社会で、死体というものに直面する方策を持たない人間。死者への対応は今や、セレモニーハウスの職員が担っているような状態である。もちろん地域差はあるだろうが、小田原での葬儀は葬儀専門会場で執り行われることが、ほとんどである。ここ10年の急速な変化だ。いよいよ、家庭出の日常の暮らしと死は距離を持ってきている。死は忌むもので、まして、死体という物は不気味な、不吉なもの。この映画は、日常からいよいよ遠くなっている死体を扱うという、ある意味タブーに踏み込んでいる。
日本人の死生観は、とかく生き様とか死に様とかいうような、武士道で象徴される切羽詰ったような、死生観といいながら、人生観になりがちである。だから日々をどう生きるというようなことになる。この映画は、死を門だとしている。これは西洋的、キリスト教的な思想ではないだろうか。「納棺士」という、本当にあるのだろうか、と思われるような職業の話である。小田原や東京ではないと思う。もちろん葬儀屋にそうした担当はいるが、わざわざ葬儀屋から外注するように、独立しているとは聞いたことが無かった。この職業を通して、死体と言う物を見つめてゆく。ここでその死体が生きた道へとは辿らない所が、際立っている。死からむしろ始まる世界が暗示されている。が、それも暗示にとどまり、死体という物へのこだわりが中心に据えられる。
主演の本木雅弘さんが素晴しい。この職業の意味をよく、深く、理解している。この演技が出来る俳優は他にはいないだろう。本木さん10年も昔にインドの死者の弔いの写真集を見て、インドでの死者の在り様がまるで違うことを感じ。いつか映画を取りたいと考えてきたらしい。山形酒田の素晴しい自然を背景に、この映画は撮られている。これが東京のような都会では、こういう映画はできない。やはり、人間が戻ってゆく場所は、豊かな自然の中にある。全編チェロが流れているような錯覚に陥るが、チェロという楽器の音色が又、この映画のテーマに実に適合している。音楽担当の久石譲氏が素晴しいのだろう。良い映画を観た。
昨日の自給作業:草刈1時間緑肥蒔き1時間 累計時間:32時間