外国と言うもの

   

オリンピックが中国で盛大に開催されている。スポーツと言うと目を離せなくなるところがある。子供の頃東京オリンピックがあったと言うことが原因していると思う。オリンピックと言うと、特別な気分になってしまう。次のオリンピックを見るまでは死ねないと、冗談でなく思っていた。何故だったのだろうか。当然日本という国を意識するようになったのも、あの鬼と呼ばれた大松監督の女子バレーの優勝が始まりだ。もちろん勝って欲しくて、真剣に応援していた。あの東京オリンピックの時代は、今の中国のような時代と想像しても大きくは違わない。選手を応援すると言うより、日本という国を応援していた。今は少し違う。この少しの事だが、日本人が変わった感じが、日本人が国際化した。と言う結果だと思う。外国の人と触れ合う機会が増えた。海外に行く機会も結構ある。テレビでは外国も日本も同じ調子で放送されている。これはとてもいい感じだ。

影が薄くなっているが、同時に高校野球が行われている。こちらの応援も母校が出ていれば、相当偏屈な人でも、応援するだろう。次に、故郷とならそちらの応援だろう。家族のふるさとが例えば沖縄であれば、つい沖縄も応援するだろう。その辺りが普通の人の普通の気持ちではないか。その普通の気持ちが、オリンピックでは国という感じであっても、近づいてきたと思う。フランスで暮した事があるので、どちらかと言えば、フランスを応援してしまう。金沢で暮した事があるので、つい石川県の高校を応援しているのと違わない。昨日、2回戦で負けてしまった柔道90キロの泉選手は、母校出身でもあり、そこで教師もしていたので、力を入れて応援した。いつもの泉選手とは全く違う、信じられない戦いぶりであった。何か体調に問題があったようだ。

北朝鮮の選手も応援している。朝鮮の友人が居るせいだろうか。応援する。日本人とほとんど同じで、緊張した気持ちがよく見える。中国の選手より、ずっとわかりやすく、親近感がある。ところが、これが拉致問題での日朝交渉と成ると、まるで分からなくなる。外国と言うものが、いかに厄介な、どうにもこうにも正義の通らない、手に負えないものかと、思い知らされる。拉致と言う犯罪が行われ、犯人が捕まっていない。北朝鮮では犯人の目星は付いているはずだ。ところがその罪が、裁かれたことがない。北朝鮮の論理で言えば、日本は植民地時代もっとひどい事をしながら、口先の反省程度で済ませている。韓国との領土問題も同じだ。両者が話し合って、解決の方向を見つけると言う、当たり前の事が出来なくなる。隣との地境でもめれば、話し合うしかないだろう。それが無理なら裁判所で結論を出してもらう。

中国の餃子メタミドホス混入事件も、いかにも不思議だ。何故、中国では中国人に発表しないのだろう。発表しないという事に、何故批判がでてこないのだろう。この辺に中国の本当の意味での危うさがある。今一番心配なのは、中国で、冷凍餃子を食べる人のはずだ。それを心配としないなら体質が恐い。この事件の全貌は明白に成っているのだろうか。たぶんそうではない。人間の命が、軽んぜられているとしか思えない。国家の威信とか、有利とかが重要で、国民の命は、大した重要性がない。日本も東京オリンピックの高度成長期、同じような論理で、公害問題を拡大していった。当時も公害を予測した人は居た。しかし、日本の成長のためには目をつぶるしかないと考えていた。オリンピックの日本選手を応援しながら、東京オリンピックの頃、気付いていなかった、さまざまなことに思い巡らせる。

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