養老猛司 講演を聞きに行く
養老猛司氏が里地里山について、話してくれるというので、大変期待して秦野に出かけた。著書はだいぶ読んでいるので、直接だとどんな感じなのか、ミーハー的興味津々であった。県の主催で、松沢県知事も挨拶に見えていた。4月から施行された里地里山条例に熱心らしい口ぶりであったので、今後に期待したい。県のお知らせにも、講演会の案内は掲載されていて、抽選と言う事だった。私は久野の里地里山協議会の方から別枠で、参加させていただけた。しかし、どうも不公平感があって、ずるをしているようで、当日まで居心地は悪かった。つまり人気がすごいから、抽選では入れるなんてめったにないように思っていた。当然大ホール満杯だろうと思っていた。小ホールの方での開催であった。何か拍子抜けしたが、「バカの壁」のベストセラーからだいぶ時間が経つことは経つ。
昆虫に熱中されているのは、あちこちに載っているので、良く知っている。ラオスの話が面白かった。ラオスの暮らしぶりと日本人の暮らしぶり。私などは、日本でラオスのように暮せないかと、やっているので、養老先生のこの辺の観察が、興味深い。「手入れの思想」やはり里地里山については、このことを話されると思っていたとおりだ。話の間中動き回っている。白板を2つ用意して、それに書きながら、よろけるように、前にフラフラと来たかと思うと、足をクロスして、不安定に立つ。と思っていると、そのまま右に重心を移して、倒れそうになりながら、そちらによろけてゆく。前後左右7メートルぐらいの範囲を常に動いている。貧乏ゆすりを身体全体で、表現しているような感じだ。全体に、本で読むときに感じたような、洒脱というか、斜に構えた印象がない。うごきながら、説得調というか。若干苛立ちを見せながら、断言的に主張される。
アメリカ人の自然に対する考えは、原理主義だ。その通りだ。喝采をしたかった。アメリカの自然公園では、人間の痕跡を残さない。人間が関係を持たない手づかずの自然を、無垢の自然として尊重する。こんな自然なら人間にはいらないのではないだろうか。日本人の自然観は、里地里山が象徴する、人とのかかわりによって、微妙なバランスで作り上げられたものを意味する。人家は、川が平野に入るあたりの山際に、遠慮がちにある。前の方には田んぼが広がる。人家の後方には段々畑が続き、少し上がったあたりに、果樹などが植えられている。そして薪炭林のクヌギの林が、こんもりと茂る。その更に上部には植林された林がいくらかに続く。見上げれば朝な夕なに、母なる山を望むことが出来る。こうした自然の中に人間の暮らしを、過不足無く調和しようとした姿を、最も美しいものと感じる、心の事だ。
里地里山の本質はそこでの調和した農林業の姿の事だ。農林業が再生されない限り、意味を成さない。都市公園のように、人工的に里地里山らしい風景を一部に再生したところで、何の意味もなさない。横浜のような都会地の中で、囲まれた谷戸田を残すような活動は、実は里地里山の保全とはいえない。それには都市公園的意味合いはあるが、本来の里地里山の意味は、そこに暮す人が居て、初めて成り立つ。暮らしが成り立たなくなったが為に、崩壊した里地里山を再生するとは、そこに暮す人達の、暮らしを再生することなのだ。あしがら地域で里地里山を再生するには、この地域での調和した暮し方を見つける事になる。この点を不可能と決め付けてしまえば、アメリカ的な不可侵の自然公園にでもした方が増しだ。不調和に、廃棄物処理場や、建築資材置き場、残土の捨て場、墓地。火葬場。精神病院。老人介護施設。無計画に里山に入り込んだ姿は、見るも哀れである。