第67回水彩連盟開催
新国立美術館での、2回目の水彩連盟展の開催だった。水彩人の仲間の川村良紀さんが、代表になって、初めての水彩連盟展だ。昨年から実質的には川村さんが担っていたので、大きな変化はないが、代表と成ると気を使うことも多くなるし。絵の方に集中してゆけるか、少し心配だ。川村さんは、水彩画において、最も注目されている一人だ。画格がきわめて高い。精神性の高い結晶のような絵を描き続けている。代表は委員の選挙で選ばれたと思うが、川村さんを選ぶ委員会の見識も、当然とは言え確かだ。川村さんから事務所の陣容も変わって、薬本さんが事務局長で奮闘していた。薬本さんはなかなかの人物で、絵描きには珍しく骨のある人物だ。絵を描く人の多くは、神経質な小人が多いなかで、どちらかといえば、横綱のような泰然自若とした人だ。倉敷の方の美術学校の先生をされていたはずだが、東京に出てきたらしい。色々の意味で決意した所があるのだろう。
今回小さい作品を出した。小さいといっても、全紙サイズだから、油絵で言う40号のFサイズと同じくらいはある。これで際立って小さいのだ。それが公募展というところだ。昨年は150号だったから、紙では限度のサイズという感じだった。それに較べれば確かに小さいが、小さいのも描きたい。これは当然の事で、そもそも内容と大きさは、重要な関係がある。当たり前の事だ。水彩画というのも本来、中判全紙油絵で言う、20号大というのが、大きい方になる。公募展と言うような形式ができなければ、そもそも、そんな大きな水彩画が現われる事も無かっただろう。水彩画は日本画の人や、油絵の人でも、下書、スケッチの時に描く。簡便だと言う事もあるが、要点を掴むと言う事が、やり易い手法なのだ。ここを深く考えてみると、本質を捉えやすい材料ということになる。
それは、ボナールやマチス、セザンヌと、両方を描いた人の絵を比べるとわかる。水彩では表現の骨組みのみが描かれている。あまり尾ひれの方はやっていない。ボナールのようにとことんサービスしてしまう絵描きでも、水彩ではその感じた所の本質的要素だけを直裁に示している。とことん妥協しないセザンヌでも、水彩を見ると、何を考えているかの、構造だけを見ていることが分かる。私のように構造だけを見たいと考えているものが、水彩に魅かれるのは、こういう所からきている。尾ひれやサービスの方は、もう沢山という気がしているのだ。充分仕上げましたというような、作品風な作りがいかにくだらないかと考えている。そんなものは、公募展という特殊な所でのみ、云々される芸術とはそもそも違う所で、問題にされる妙な、色合いに過ぎない。
水彩連盟展は会場が狭い。狭い中にそれは膨大な絵が詰め込まれている。そのために、押し合いへしあいという状態で。展示していながら申し訳ないのだが、絵を見る環境ではなくなっている。水彩画の見本市会場のような風で、各社競争で製品紹介をしている昔の晴美会場のような雰囲気に、どうしてもなる。絵を鑑賞したり、味わったりする場にはならない。今回も壁面を増やして、いよいよ詰め込んだが、狭苦しい雰囲気が出てきた。これを脱却するには、中判全紙程度の絵が、ゆったりと飾られている部屋が必要ではないだろうか。小さめの佳作を集めるための、方策がいる。小さい作品は隅に押しやられる、こういう雰囲気が、小さいものを出さない傾向につながっているのだろう。小さいものもきちっと見る。評価もする。こういう方針が打ち出されないと、もうこの会場ではスペース的に限界ではないだろうか。