水彩連盟展の出品作品
今描いているところの、そのままの写真だ。アトリエと言う事になるのだろうが、実際は廊下だ。廊下が一間巾あり、長さが、5間半ある。距離が充分取れるし、南側の廊下だから、明るい所がいい。もちろん外が眺められるから、気分も良い。庭の眺めを、描いているようなものだが、再生する自然の力を描いている。今の時期、舟原の何処の家でも、大木の夏みかんがたわわに実っている。これは見事なものだ。私の家にもある。豊かなものだ。ここから伝わるものに、自然力、その底知れない大きさを感じる。しかし、今描いているのは、橙の樹だ。橙は不思議な樹だった。先日集荷場で聞いて、ビックリして調べてみたのだが、一年目に実った橙が、そのまま取らずにいると、2年目にだんだん、元の緑に戻るんだそうだ。それが、又寒くなる頃に更に、大きくなりながら、見事な橙色になる。そんなことがあるのかと驚いた。
何と3年木に実る。と書いてある。書いてあれば簡単な事だが、それを畑で偶然発見した、サホさんのビックリが面白し、すばらしい。取り残しの実が更に大きくなって、又きれいなオレンジになったというのだ。不思議な大発見だ。つまり一代目と2台目が共存して、実るという所が、代代栄えると目出たい樹木になったらしい。お正月のお供え物、餅飾り、の上に鎮座するのが橙。そんなことも知らなかった。サホさんから聞いた時には、佐保さんそんな冗談ばかり言ってと、取り合わなかったぐらいだ。その木の条件がよほど特殊なのだろうと、変なことを言っていた。だから、いま、橙を描いている。橙の生産量は熱海市が、日本1。正月飾りだけでは、捌けないほどあるらしい。そこで、ダイダイマーマレードの生産を、生産農家のおかーさん達が始めた。この辺りでは有名な話で、お土産やら、朝市などで見かける。橙が、マーマーレードには一番おいしい。こう言われている。
アトリエと絵の事だった。机の後ろの足を20センチ持ち上げて傾斜させている。私自身は手前のテーブルの上に更に椅子を置いて、高い位置から、見下ろすように眺めている。時どき下りていって手を入れる。絵はびB4全紙。右手にある大きなグレーの箱が、絵の具箱。90センチ×30センチはある。これに一杯水彩絵の具がある。このほか、こんな箱に、3つ他のタイプの絵の具がある。そのぐらいないと、安心して描いていられない。使わないで、硬くなる絵の具は数知れず。そうでないと描けないのだから、情けないがこればかりは仕方がない。絵の具箱の上に置いてあるのが、水入れと、筆と、パレット。絵の後ろにあるのが、水彩用のイーゼル。水平にしたり、垂直にしたり、角度が変えられる、室内用イーゼルだ。すわり机の下にあるのが、昼寝用のマットレス。使ったことはないが、いつでも使える用に置いてある。
こうして絵がかける事は、本当に恵まれた事だ。少しはマシな絵を描かなければ申し訳ないことだ。好きな絵を描いて、発表もさせてもらえる。こんなあり難いことはないだろう。今回描いていてふとわかったことがあった。「描写して行く事と、抽象化してゆくことの、関係」が少しわかった。人間が物を描写するのは、本能のようなもの。それを、抽象化して作品にするのは、生身の人間の表現。ここの関係に、呼吸がある。描写であっても、画面の上に存在すると言う事は、抽象化している。これはよく言われることだが。表現すべき何かが出てくれば、ただの描写で済む訳にはいかなくなる。所が、人事でなく、表現すべき内容など、確かにない。ありそうに見えても、自分にだけ意味があって、他者にとって意味のある内容など、私にはほとんどみつからない。そこでだ。あれはどうか、これはどうかと、借りてきては、消えてゆく。結局、残ったわずかな内容が、自分のわずかな切れ端で、抽象化されて画面にとどまる。