「自給農業のはじめ方」

   

中島正さんの今度出した本が「自給農業のはじめ方」だ。中島さんは「自然卵養鶏法」と言う名著を書かれた方だ。自然養鶏を志すもので、この本で学ばないものはいないと思う。100回以上読んだ。実際やっている人が、やっていることをそのまま文章に書くと言う事は、案外出来そうで難しい。実践の名人の多くはあまりに名人のため、自分が何をやっているのか、良く把握していない場合が普通だ。もう何気なく、習慣のように、すごい技術を行う。職人芸と言うのは、そういうもので、文章化など大抵の作業が出来ない。「名人伝」(中島敦著)の中にその姿は良く書かれているところだ。しかし、中島さんは違う。全ての作業を言語化されている。それに加え更にすごい事は、その技術が全て都市崩壊の論理に貫かれている点だ。羽生五郎氏の鶏の飼い方のようなものだ。そういえば、中島さんは「都市を滅ぼせ」と言う本も出している。

その中島さんが、自給農業について本を出したのだから、当然、読みたくなった。一番の観点は、自給農業の哲学についてだ。名著「百姓入門」(筧次郎著)の農に生きる原点の論理を、どう自給農業の技術に表わしているか。ここが読みたかった。一番ビックリしたのは、黒マルチ農業を提唱している点だ。黒マルチは都市が生み出した、農業を駄目にした産物だ。などと切り捨てない所が、中島氏らしい切り口だろう。黒マルチを使い切れと言う考えのようだ。ペットボトルが悪いのではない。ペットボトルを使い捨てにするからいけない。これと同じ考えで、黒マルチを利用すれば、楽な自給が出来るという訳だ。さて、難しい。なるほど岐阜の山奥で、自給するとなれば、そうなるか。実践の書だ。

私が「発酵利用の自然養鶏」を書いたのは、実践の書は一つではいけない。と言う考えだ。実践においては、逆の事が普通だ。餌は夜やる方がいい。餌は朝やる方がいい。いや、昼がいい。全てが正しいのだ。実践の技術は、総合的に形成されていて、自分の必要な、あるいは都合のいい部分だけ抜き出して見ても、案外に整合性が取れないものだ。だから、私は鶏好きの、鶏の飼い方を書きたかったわけだ。中島さんの自給の本を読んで、随分うずうずさせられた。つまり、農業好きの自給の本がいる。こういう思いだ。ただの自給なら、今だって、この舟原にだって、20軒ぐらいは存在する。ただのというのは、尊敬を込めての事だ。農家の好きでやってきた、ある種の合理性のある自給の姿だ。

しかし、実際の所、趣味が嵩じた、物好き農業の姿は、又別なのだ。どう別とか言いにくいが、訳のわからん草花があったり、ハーブがあったりする。草だらけであるのが好きだったり、いかにも乱雑であったり、おおよそ毎年様子が違うのだ。庭なのか畑なのか、わからないような、自給の姿だ。だから、幾ら草取りが楽だからと言って、庭に黒マルチを張る人はいないだろう。最近は、コンクリート化して、筋に土を残して、玉竜を植えたりするが。庭と言うより、あれは駐車場か。農家の方から見れば、駄農の見本のような、農業の姿が、手間暇かかる自給農業の姿であったりする。筧さんのように、機械力を使うことがおかしいと言う論理もある。たぶん中島さんの本はこれから、何十回と読むだろう。この中にある。稲と麦の輪作、一体これは何だ。何と、稲と言うのは陸稲のことだ。この米あまり時代に、陸稲を推奨するのだから、ともかく、中島さんは独自の道を行く。

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