久野里地里山の集まり
里地里山の集まりは、大変熱の入ったものだった。ただ、行政がこの事業にどのようにかかわる覚悟なのかが、この点に不安が残った。今回は行政の作った。事業案と笹村私案との検討が主な議題だった。行政案はよく出来ていると思う。行政案なら、何処に持って行ってもほぼ通用できる事業計画だと思う。問題があるとすれば、久野地区という特徴に欠ける点だと思う。もう一つは、事業主体が見えないことだ。誰がこれをやるのか。つまり、昔の行政の事業案であれば、行政が費用を出してやるのだから、住民は協力者程度の、かかわりでかまわない。所が、今回の事業には、基本的に予算はない。行政も何か行うとは言うが、本質的には何もしてくれないと考えて置かなければならない。それで、その上で、一体ここまで崩壊が進んできた、里地里山を住民に再生しろ。と言っているのだ。会議でも、「国の政策が悪いからこうなったのだ。」こういう意見が出た。
久野の地区内の諏訪の原には、諏訪の原公園が作られている。たぶん何10億の予算だろう。こういう所に、予算をたっぷり注ぎ込んで、何故久野全体の事業に幾らの予算もないのか。この辺の配分がわからない。まして、県立公園を作るなら、この公園内に、里地里山事業のセンターハウスぐらいは設置するべきだ。やることがバラバラだ。では市のフラワーガーデンは利用できないか。これもどうも駄目そうだ。結局は自分たちで作りなさいと言う事だろう。そういうものかもしれない。市も、県も、今のところ当事者意識がない。市も県も、何とかしなければならないのは、住民と同等に責務を負っている。国の政策に問題があり、里地里山が崩壊したとするなら、それに対して間違っていると、声を上げなければならない。
地域で茶業を担っているTさんは、会議の席で「この地域の農業は消えてゆく。可能性はないと。」断言された。長年この地域で農業で生きてきて、スーパーマンのような農業者の方がそういうのだ。たぶんその認識は、行政も里地里山私案まで作る私でさえ、大きくは違わない認識だ。農業が消えてゆく中で、行政は都市公園のような里地里山を想定する。「しかし、予算はないので、都市公園を住民のボランティア主体で作りませんか。」こういう話だろう。笹村私案は、「可能性の理想をかざす事は、意味がある。」こう書いているのだと思う。森林ボランティアの事を否定的に書いたが、私は友人だし、その行為を高く買っている。しかし、そうしたボランティア行為に依存して、森林を再生しようなどと、行政が主張するのでは馬鹿げている。同じく、久野の農業はなりわいとして成立しないが、ボランティア的に守って欲しいでは、住民の負担が増えるだけで、何も改善されない。
CLCの田んぼを行政はボランティアの田んぼと記載している。ここなのだ。これは教育の田んぼだ。教育という中で採算の合理性がある。農の会の田んぼも、ボランティアではない。自給という中で採算の合理性がある。笹村私案では、4つの事業を提案したが、どれも今あるものを、名前を変えただけだ。「ハードルが高い」と言う意見があったが、今ある活動を、今ある生業を、里地里山事業と言う付加価値をつけただけのものだ。新たに何かをしようという所はない。それぐらい、久野には見直せば、素晴しい可能性に満ちた活動が既にあると言う事だ。その可能性の育て方に、みんなの力を寄せよう。と言う事業案のつもりだ。Tさんの茶園の景観は神奈川県下一番だ。ここを新しい茶園リクレーション施設に育てる事は、夢ではない。しかも、Tさんの生業を発展させる可能性も大きい。