自給の探求
養鶏業を生業にしている。その他農業的なことを、あれこれやっている。この中で何処までを自給の枠に入れればいいか、ここが案外に難しい。例えば、竹薮の整備、これも自給の内だとは思うが、自給分の竹薮の整理と、それ以上の、言って見れば里地里山管理と言う範囲もある。では里山管理のための行政の行っている集まりへの参加は、自給と言う事になるか。最小限の家の設計は、時々行う訳だが、こういうのも自給なのか。昨日は、1月1日1時からの恒例の舟原自治会の新年会がある。この参加も自給か。などといえば範囲は切りがなくなる。一年間先ず、やった作業を毎日記録して見る。後からそれを整理して見た方が、正確なことが出てくるだろう。いわば自給の立ち上げ時と、安定した暮らしに入った時とでは、ずいぶん時間が違うだろう。暮らしだから、常に立ち上げる続けるような要素もあるに違いない。
舟原の新年会は25人程度の参加だった。3軒に一軒の参加という状態になった。これが私が来た10年前には出ていない家はないという状態だった。地域も変わってゆく。それに変わるべき、新たな地域の在り方の提案がない。それぞれの暮らしも手一杯な中で、地域の為に良かれと新たな提案をし、労力を割ける余裕がないのが実際だろう。個々の暮らしがそれぞれに別な広がりを持って、展開されて成立している訳で、これはこれで構わないことかもしれない。理想論を言っても始まらない。そうした中で、行政は地域からの発案として、里地里山の整備再生と言う事を呼びかけている。新たな県の条例も出来た。どう枠組みが可能なのか、行政の手腕を見たい。
自給の意味、大げさに言えば「哲学あるいは思想」この事も考え続けている。緊急避難的な意味。迷走飛行からの着陸地点。と言う事で考えてきた。競争原理の経済主義の世界は、必ず行きづまり、悲惨な崩壊に至る。その健全な提案として、自給の思想がある。人がもし、24時間の内、食糧の自給には、2時間だけ割けばいいとすれば、無駄な競争はいらなくなる。22時間の方で、人間らしく、自分らしく、自由に自己実現に向かえるのではないだろうか。私であれば、絵画という表現手段で、自分に何が出来るのか、生ある限り探り続けたい欲望がある。これは他者との比較でもないし、役にもまったく立たない可能性の方が大きい。それでもやりたい、実現したい、絵画は私の生命そのものとして、価値あるものである。その生命の前提となるものが、直截な自給ではないだろうか。
と言って、私の性格か、信条からか、観念的なことでは納得できない。日々の実際的な暮らし以外、私には意味を成さない。先ず昨日の自給のための作業。「ミカンもぎ」1,5時間。「柿もぎ」0,5時間。ミカンは置いて置けば置くほどおいしくなる。しかし、木が弱る。この加減があるのだろう。ともかく昨日やっともいだ。6本あるが、1本は枯れて来ている。もう1本は邪魔な所にある。そこで、近いうちに2本切る予定。4本でも正直自給では余る。保存して長く食べる予定だが、これが案外に難しい。柿もぎは柿酢のため。渋柿の残っているものを、取った。養鶏場にあるので、獣が入れないので、まだ木に実っている。2年前の柿酢が、素晴しく美味だ。マヨネーズによし。たこすによし。今日は残りの柿もぎと柿酢の仕込をするが、ただ瓶に入れて一年間ほっぽって置くだけ。そこでろ過して又1年ただ置くだけ。時間はすごいと実感できる。
自給累計:2時間