鬼すだれの制作
鬼すだれを作った。伊達巻を作ると言う段になって、鬼すだれを作った。その辺では売っていなかったと言う事と、竹薮に対して、何かしなければ、申し訳がないような気がしていた。やたらに切り開いて、竹を無駄にしている。3つ作った。3つ作って1時間づつ3回で、3時間ぐらいかかった。一つなら、1時間30分はかかるもののようだ。写真では判りにくいが、実用的であり、自分なりの伊達巻の溝になる。そんな具合のものを作った。余り整えてはない。整えた、杓子定規と言う感じが嫌いなのだ。畑でも器具で、糸を張り、まっすぐというのでないときがすまない人がいるが、私は、機械で植えたような畑は、大嫌いだ。折角手で植えるのだから、自分の呼吸と、畑全体の空気で、自由にそのときの気持ちどおりに、植えたほうがずっと気持ちが良い。あそこで曲がったのは、疲れたからだな。あそこでは石があった。そんな記憶まで含めて自分の畑だと思う。
鬼すだれは実物は見たことがなかった。おおよその想像はついていたが、この程度のものを作るのに、真似るのは嫌だ。自分の作る独自の伊達巻をイメージして、それに相応しい鬼すだれにした。真似ると何か決まりがあるような気がして、自分のイメージが膨らまないものだ。真似たくないと言うのは性分で、へそ曲がりと言う事だ。折角作るのに、他と同じじゃ馬鹿馬鹿しいと言う気がする。何を作るのでも、真似から始まるのは当然だが、真似た後は、出来るだけ真似からはなれないとならない。農業でも、絵でも同じ。離れる時は、恐いしレベルダウンだが、そのほうが面白くなる。何かが出てくる。内側の竹の起伏も、わざとでこぼこさせたままにした。それのほうが、卵の焦げ具合と相まって、おいしそうな伊達巻になると思ったからだ。出来上がりに焼印も押したいと思っている。
昔の暮らしでは竹薮は、必要なものだった。箒からざる。背負い篭に米揚げざる、そばをすくう柄杓、弁当箱。何でも丈でこさえてしまった。子供の頃のトイレは、床から壁から、便器まで全部が竹で出来ていた。それはスースーしたけれど清潔感があった。何年かに一度作り直していた。このありがたい竹林が、迷惑千番になったのは、暮らしの方が変わったからだ。特にプラステック製品の登場だ。ビニール紐で出来た買い物篭は、確かに面倒はなく、安いし、丈夫なものではあったが、今思えばずいぶん手作業を馬鹿にしたものだ。あんな材料で手間暇かけて、平気でぶら下げたかと思うと、がっかりだ。便利は判っているのだが、竹林がかわいそうだ。ブラステック製の鬼すだれで作った、伊達巻など、私は嫌だ。プラステックの小さなすだれに載った、干物。こういうお土産がある。檜の葉っぱでも敷いたほうがずっと感じが良いのに。
出来上がったタイミングで、まごのりさんが貸してくれることになった。始めて実物をつぶさに見た。なるほど良く出来ている。鬼というだけあって、内側は三角錐にとがっていた。これでは鳴門巻きのような、星型の伊達巻になりやしないか。しかし、これが昔からのもだとすると、私の作ったものでは、山形がつかないことになる。そんなはずはない。これで全部で4つ鬼すだれが揃ったので、伊達巻作りには入れる。自給と言うのは、全てに及ぶ。じゃぁー砂糖はどうなる。いつも思うのだ。だから昔は蜂を飼った。一本は折角だから、久野の蜂蜜で作るか。そうして、せめて一切れでもみんなに食べてもらおう。