組み内の葬儀

   

組み内の葬儀が続いた。舟原の自治会は73軒加盟だ。小田原は自治会加盟率全国1と聞いている。これが小田原気質の現われらしい。舟原では入っていない家はたぶんないのだろう。5組の組に分かれていて、私の家は5組だ。5組は一番多くの家があって、22軒と名簿にある。5組は地理的に2分されていることもあり、葬儀の時等の対応は、諏訪の原よりの集落と、公民館よりの集落とで、さらに別れる。私の家は公民館よりの6軒の塊と言う事になる。この6軒の地域に、家が建てられているので、ここも10軒ぐらいの固まりになるようなら、将来、舟原も6組になるかもしれない。自治会が出来たという明治の頃に、40軒より少し在ったらしいので、分家や何やらで、1軒が小さくなりながら戸数は増えたのではないだろうか。人口の方はそうは変わらないような気がする。

葬儀は越してきて以来親しくさせていただいた。市役所の勤めに出ている方だ。私と同じ年齢で、病気をされ亡くなられた。あれこれこの地域のやり方を教えてくれた方だ。春には畑の野菜が採りきれないので、鶏に上げていいよ。と言ってくださった。その頃は、まだ役所に行かれていた。その後、具合が悪いので、病院に行っているとは聞いていたが、こんなに急になくなられるとは、思っても居なかった。地域での葬儀も今は、葬祭会場でやることが多くなった。越してきた頃には自宅で執り行い、近くの総世寺まで葬列を作り、旗を立て鐘を鳴らして歩いた。葬式の道具も一揃い公民館にあり、借りてきて組み立てた。少し前までは棺おけも、近所の建具屋さんがこさえたと言う事だった。

葬儀の場では昔話が出る。前回は5つあった水車の話が出た。今回は舟原が昔はスイカの有名産地だった。との貴重な話が聞けた。一個が1000円もして、当時としてはブランドスイカだ。今の北海道の黒いスイカ1万円と同じようなものだったそうだ。舟原と言うラベルがあった。これは久野でも舟原単独のもので、土地柄がスイカに合っていたではないかと言う事だ。このスイカ栽培で、山が開墾されていった。ミカンも90年という木がまだあるそうで、その苗をくれたのが、やはり舟原のユタカさんの家だとか言われていた。そうなると100年前には舟原にミカン栽培があったことになる。スイカも正確にはいつ頃かはわからないが、100年前にはやっていたのではないかと言う事だ。スイカを一度作ると5年はダメと言う事で、南向きのくぬぎ山が開墾されていった。当然、全部手でやった。それで今杉山になっているところも、全部畑だった。

スイカをユウガオに接木する技術を、三浦の方で始めて、それに押されて舟原スイカは衰退した。スイカの時期が終わるとそこに、漬物大根を栽培し、たくあん付けをどの家も生産した。それが箱根の旅館に出荷された。旅館の朝必ず出た、小梅の生産と同じだ。スイカがダメになってから、タバコが作られるようになって、それに併せて蕎麦作りが始まった。タバコもそう長くは作られず、お茶をやった者もあったが、戦後はどこもかしこもミカンになった。
若くご主人を亡くされ、奥さんは憔悴しきっていた。娘さんも結婚され、息子さんも大学を卒業され、一安心だったと言う事が、せめて慰めだろう。同級生の方が同じ組み打ちに2人もおり、本当にがっかりしていた。昔は12名の同級生が舟原から出ていたらしい。わたしたちの年齢のものは、何処でもきわだって多い。

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