水彩人の審査日

   

水彩人は同人を求めている。今年、一名が新しい同人に加わって、16名になった。6人で始めて、来年10回展になるが、16名と言う事は年に1名程度増えてきた事になる。昨日は一日その審査を行った。水彩人を結成した理由は、絵について、自由に語り合える仲間を作りたい。あれこれあったが、結局そう言う事になる。既成の公募団体が絵の事を話さなくなっている。一般の出品者が、会員の絵に対し、あなたの今回の出品作は、これこれの理由でよくない。等発言出来ない状態になっている。階級制度というか、家元制度というか、日本的支配構造がしかれ、本来の一番大切な、絵画研究の為の集まりと言う側面は、閉ざされている。水彩人の仲間もあれこれの公募団体にかかわりながら、そのことに苦悩し、何処までも自由に、対等に、絵の事を語り合える仲間を求めてきた。

アンデパンダン展という、無審査の組織も在る。カヨ子さんはもう長いことその展覧会に、彫刻を出品している。その彫刻部門の出品者での研究会も、銀座の東和画廊で、続けられている。なかなか見ごたえのある、展覧会になっている。無審査で行うと、レベルが低いように思われる。日展の彫刻に入選したからすごい。とか、新制作の彫刻部はレベルが高いとか言われるが、アンデパンダン展の彫刻を見る限り、レベルが、日展や新制作より低い、と言うようなことは、全くない。と言っても、そうした公募展はこの20年見たことがないので、昔の印象だけで書いている。水彩人は自由に絵の事を語り合うために、その制作姿勢を書いてもらう。作家としての生き方を聞きたいのだ。ともかく、審査と言う事の意味をあれこれ悩む一日であった。

同人である自らを省みる一日でもある。水彩人では同人も、応募者同様に、扱う。同人に相応しくない。制作の方向が違う。という批評も率直にでる。そうした批評の結果と思われる、退会をした人も何人もいる。新同人の審査を行うと言う事は、同じことを同人自らに課そうとしてきた。だから、いよいよ思い悩む、審査になる。今年度から、同人の審査という形を、とりながらも、「一般出品の審査」と言う名称になった。判りにくいのだが、同人一本の形では、判断がつかない為、折角の仲間を見落とすこともある。作品を共にならべ、語り合い。展覧会を共に行い。同人としてやっていける人か、踏み込んで判断させてもらおう。と言う事になった。

結局様々な議論の末、一度退会した。郡司さんが同人に復帰した。郡司氏の絵の道は、評価されるべき本質的なものなので、彼を同人として迎えたい、と言う事に異存のある人は、当然居いだろう。作品も難解で、当然人間も難解で、何故一度退会したかも誰にもわからないが、再度同人としてやろうと言う事になった。近年の彼の絵の深さは、現代に於いては類まれなものだと思う。絵画的に高い質を感じる。以下が私の作品評である。
「洗練された世界が提出された。筆遣いに以前との変化を感じる。絵画表現としての統一感がある。かな書きのような優美さがある。そぎ落とされ整理された世界がある。洗練と結論。しかし、結論を求めると世界は狭まる。混沌が失われる事で、未完の可能性のような、融通の利く部分が無くなる。制作はいつも、仕事を厳密化する。結論を求める。結論と言うものの持つ、厳しさ。過程。試行錯誤。間違い。そうした人間的なものの入り込む所は、この後どこかあるのだろうか。結論を出しては否定する。制作の無限。」

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