水彩画の構図

   

絵画の構図について、もう少し考えて見る。日本画がデザイン的である、という所から、そもそもデザインという呼ばれ方は、何を意味しているのか。配置するというような、意味合いから、意匠性と言う事になる。装飾という目的に向けて、配置すること。絵を描く人が、デザインというと、概ね否定的なニュアンスを含んでいる。これは私たちの世代で言えば、小林秀男の『近代絵画』の影響が強いと思う。つまり、芸術というのは個人の自己表現。内なる自己を搾り出して、他に対し表現するのが絵画だと。デザインは他者の目を配慮して、あるいは主目的化して、意匠化するところに、芸術として考えれば目的性の純粋性がない。そんな感じなのだろうか。日本の伝統的絵画では、近代絵画で言う所の芸術をどのように考えていたのか。

用の美ということ、茶の湯や禅に見られる、精神世界との関係がある。琳派の絵画と、雪舟の絵画との違い。掛け軸というものがある。実に良く出来た形式だ。この独特の縦長の構図に当て込む、これこそ、日本的デザインの良く現れたものだ。床の間という前提がある。季節ごとに架け替えるという、風習がある。正月には正月のめでたさを、意匠化した絵画が、床の間という独自の空間にかけられなくてはならない。そもそも床の間の考案に、仕掛けがある。茶道から来た者だろうが、見立てると言う事がある。同じ部屋でも、何か濃密な場を見立てる。そこには、生活者が立ち入れない、不思議な改まる空間を作る。形式的な、様式化された場である事で、むしろ精神的な場を作り出す。それが、仏壇とは別個の世界であり、現世的な、生身が向かい合う扉である。

床の間の縦構図の掛け軸の、花鳥風月。そこでは構図的な創作意図は、すでに設定が完成している。原案があり、その原案になぞらえることが、絵師の仕事。あくまで職人に徹する事で、それは作業であり、創作ではない。しかし、そのとことんデザイン化された世界に、宇宙的な空間を、却って想像しようとする発想も存在する。掛け軸は文字の事もある。これは掛け軸に求められているものが、意味的なものであることの、表れでもある。めでたい鶴亀という絵を描く、用の美。個々に極端な縦構図で、風景を描く意図がある。写生とは違う、様式化した風景。観念化した風景。記号化した風景。

この予定調和のような、絵画世界の約束の崩壊が始まる時、意味性は崩れる。鶴亀がめでたいという約束がない人には、妙な組み合わせの風景画に見えるだけ。明治以降の絵画の展開は、約束事の社会的なものを、どのように個人のものに取り戻すかの苦闘。たぶん、日本的油彩画とか呼ばれる、岸田劉生、梅原龍三郎、中川一政、などの系譜はそのさらなる統合の事例なのだろう。掛け軸をもう一度新しい日本人に向けて、作ることが出来るのかを試していたような仕事。この時の、大きな拠り所が、動静と構造だったのではないか。日本的自然観から来る、自然の持つ力への反応。画面という個人世界に持ち込む時の解釈が、構造。このせめぎ合いに、各々人が現れてくる。せめぎ合わなければ、絵が作り出せない。絵という意味の変化。この不確定ではあるが、どこかに結論が見えそうな、世界である事が、今までの張り合いの在る絵画世界であったのかもしれない。

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