百姓がアートすること
以前農の会で、農の会は農業だけやればいいじゃん。と言うような、もろもろのツブヤキがあった。そりゃそうだ。農の会という組織で、お茶の会をやったり、焼き物を焼いたり、アートフェスティバルをやったりするのは、まともに考えればおかしなことだ。でも、そうじゃないだよな。古代人の自給は家を建てたり、道具を作ったり、絵を描いたり、それは、総合的なものだったんだよな。農業だけやっているなんて出来なかった。それでいて、自給してのんびり暮していた。お祭りをやるのも、田んぼをやるのも、暮らしの一部でその境など少しもなかっただろう。古代人の作った土偶や容器を見ると、その感性の豊かさは、とても現代人の及ぶ所ではない。その背景にあった暮らしの豊かさ、大きさは充分教えてくれる物がある。これは経済活動、これは余暇、これは信仰。中屋敷遺跡の縄文晩期の土偶は、そんな境目は全く感じさせない。
それでは農の会とは距離をとって、農の会というワクを取り払って、旭ブルーベリー園の夏祭りとしてやろう。それの方が自由に楽しめる。そんな風に変化してきた3回目の夏祭りだった。450人が集まったそうだが、ごみごみした風はなかった。私自身2つの事に関心があった。もちろん一つは野焼き。この土地で焼かれた。土偶を作った人と同じ気持ちになって、野焼きをやる。もう一つが、森の小道をお祭りの装いにする。自然の様相を変化させる。それを楽しみたいと思った。100メートルほどの小道を、通り抜ける事で、気持ちが明るく変わるようにしたい。祭りへのワクワク感を作り出す。そんな道を作って見たいと思った。初めての試みとしては、かなりの成功をしたと思う。一つには、天候に恵まれた。初夏のあかるい陽射しと、風。外の明るさから、林に入ると、案外深い森の中に居るように感じる。そして、木々が色とりどりの布の、ネッカチーフをして、おしゃれしている。それが、風でたなびく。
野焼きは、何と1017度まで温度が上がった。まだ上がる様子だった。下に薪を置き、泥のままの壺やら、土偶を積み上げる。そして稲藁で取り囲む。2センチほどの厚みで田んぼの土をぬる。それだけの事だ。以前、耐火煉瓦で釜を作った経験から言うと、これで、千度を越えることはちょっと信じられない。私は、土球を作った。土の空洞の玉の中に、四角さいころのような土を入れて、焼き上げ、カラコロと心地よい土の音を味わう物だ。アイデアは師匠のちょろりさんから戴いた。土球が出来れば、只者でない存在感を持って欲しい、百姓のアート魂だ。土を毎日眺めていて、土が全てを作り出してくれる。人のやれることなど。本当に少ない事を実感している。土という奴が、すごい物である事を、実感できる存在物を作りたかった。
今回みんなの制作したものを、旭ブルーベリー園に8月7日まで、展示する事になった。展示すべき、と思うほど素晴しい作品群なのだ。焼き物は農作物と似ていて、自分がかかわれることは、限られている。自分は自然に従い少し調整する。そんな感じが、野焼きの焼き物にはある。温度的にも、色彩的にも、須恵器の感じがする。焼きあがった土球のカラコロがかなり高音だ。もし、旭ブルーベリー園に行かれたら、手にとってカラコロ成らして見てください。きっと古代の音が、土の音がするはずです。