山田村祭り
昨日は小宮さんのブルベリー摘み取り園の夏祭り、山田村祭りの打ち合わせがあった。去年よりだいぶ流れがスムースに成った。特にこの1年の小宮さんの変わりようは大きい。ブルーベリー園も軌道に乗り、自信がついたという感じだ。昨年は主導的に進める気がなかったが、今年は自分の主催する祭りと言う事で、明確に動いている。又、3回目と成るので、参加者も自然に集まる方向になって来ている。それに加えて、小宮さんの暮す、山田地区の方も参加してくれそうだ。地域発の自主的な祭りがしたい。と言っていた、小宮さんの願いが実現できそうだ。山田村が内山と並んで、あしがらでは暮らし易いところとされていた。よく言われるのが、燃し木がある。水がある。田畑がある。そう言う事だろうが、その結果というか、人間が良い。実は住みやすいところとは人間関係のいいと言う意味だ。
今回私は古代部門の担当になる。山田村は古くから、人が暮してきた場所で、関東以北で最も古いと言う炭化したお米が出土している。そこからは、容器型土偶も出土している。これは重要文化財にも指定されている。この山田村の古代よりのおもしろさを、土偶や土鈴を作る。野焼きをする。おいしく食べる。古代人の服を着る。古代の旗を描く。そんなところから、古代を体験できる祭りにしたい。古代の暮らしをしてゆくには、食糧の自給が出来ること。それは自然を大きく改変しないでも、備わった環境と言う事だろう。田んぼを大きな土木工事なしに、水利工事なしに、作ることが出来た。自然災害も少ない。薪が取れる林がある。海が近く海産物も豊富。そんな山田村の暮しやすさは、実は現代のあしがら地域そのものだ。
山田村祭りを作り、伝えていくと言う事を、暮らしを深める機会にしたい。これは集団と言うものの意味を、考える機会だとも思う。農業者は人とのかかわりなく暮そうと思えば可能だ。だから、いつの間にか、がんこで閉じた人間になりやすい。これをときほぐす役割も祭りにはある。人の集団が作り出す空気感は、誰かが意図して出来上がるものではない。そこに集う人間の相互に織り成すものだ。かつての祭りが形骸化して、あるいはショウアップされ。本来の暮らしの中での祭りは自分たちで作り出さない限り、ないものだと思う。その折なす人間が、宗教的でもなく、政治的でもなく、個々の独立した自由な精神の人間でありながら、個々の自由意志に基づき全体性を作り出す。そんなことが出来ないかといつも思う。
ここでの祭りは、先導する主催者がいてはいけないのだろう。参加者が自分の意思で、自由に表現してゆける場にすること。受身の参加者が一人も居ないような祭り。昨年、初めて参加した人が、こんなに開放された、許された気持ちになれたことはなかった、と手紙をくれた。当然そんな空気に合わない人も居るようだ。合わないだろう人が、一人で居られる場所も作った。来る事は来るが、距離を置きたい、そんな気持ちも実は大切だと思う。昨年は昼と夜を併せると、550名の参加だった。今年は、駐車場の事もあり、夜の部は今のところやらない予定だ。ちょっと寂しい。しかし、野焼きのほうは夜までかかるわけだから、この辺も工夫したいものだ。少しづつ形が見えてきて、本当に楽しい。これからは、毎週水曜夜には集まる事になるので、興味がある人が居れば、是非準備会から来て欲しい。