人間の関係

   

人間が600万年ぐらいの時間をかけて、今のように変化してきた流れを、「進化」という。進化というと何かいい方向に向かっているというイメージだろう。ダーウィン的進化よりも、最近は変化というほうが、ぴったりするんように考え方が変わってきた。人が人になるには、脳が何故か、徐々に容積を増すように進化し、最初の5倍ぐらいまで膨らんだ。これが人間を作り出したという考えがあった。どうもそれは不自然だ。2本足で立ち上がったことで、手が自由に使えるようになって、脳の方は結果として大きくなったというのが、最近の考えらしい。その立ち上がるきっかけは、森の消滅と草原の成立が作用した。のではなかろうかという説が有力。チンパンジーや、ボノボは少しは歩く。しかし、ずーと歩かないで済んだのは、幸運にも歩かないで、生きてゆけたからだろう。歩いて逃げ回って逃げ切れた奴だけが、人になったのだろう。

人と人の関係ほど解明困難な物は無い。さらに組織というものになると、あまりに複雑な要因が働き、問題が埋没してしまい、本質が隠れてゆく。例えば、2市8町の合併と言う事がある。当然合併効果というプラス面がある。例えば、今話題になっている小田原の城下町ホールも、これが2市8町が一つの行政区なら、随分違う議論になっているはずだ。南足柄のホールのほうが近いという小田原市民も、何十パーセントか存在する。2つも入らないだろう、と節約できる物も多いい。合併すれば、効率的になるという消防のような機能もある。火事の時に、行政的区割りより、近いものが対応したほうが良いし、大きな火事になれば、全体動員もかけやすい。これが東京ほど大きくなると、オリンピックまで開催する能力が生まれ、それが新しい活力になると言う事も否定は出来ない。

人間の群れはどれぐらいが自然なのだろう。多分基本単位は小さいものだろう。50人ぐらいまでだろうか。大きくなる事で失われるものが、相当ある。これを上手く調整出来るのだろうか。関係が広がって見失われる物。見えなくなるから暮らし易い、と好まれるのが都会。この個人主義という奴は曲者で、誰だってそんな気分は持っている訳で、それも人間。この対極化する二方向を、上手くバランスが取れる手法は無いものだろうか。ゴミを考えた時に小さく見える処理にすればゴミは減る。大きくなればなるほど、大量廃棄が起こる。この原則を生かした形で、上手くゴミ処理を合理化できるものだろうか。上勝町の町長さんは小さいから出来たといわれた。ゴミの回収をやめて、全て持込にしたのだ。これはゴミは間違いなく減る。しかし、これを見えない関係の中でやれば、ゴミ屋敷がいたるところに出来るだろう。

田んぼグループは7家族程度がいいようだ。お互いが良く見えるからだ。それ以上になると、ちょっと大きすぎる。大きいと取り仕切る責任者が必要になる。仕方が無いとは言え、ちょっと面倒になる。舟原の集落でも当然田んぼグループのようなものがあり、それが村落を形成していた。その規模は50戸ぐらい。それが5つの班に分かれている。10戸単位で意思の合意を果たそうと言う事のようだ。現在は上手く機能しているとは思えないが、田んぼがあったころの考え方としては理解しやすい。地域で、共通テーマがあること。その単位を生かしながら、全体性との調整を行う。この辺りが、人間の関係の難しさなのだろうが、ここを乗り越えないと、暮らしは見えて来ない。

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