「我が家の田植えの工夫」
2016/08/08
農文協から「我が家の田植えの工夫」のアンケートがきた。
まさか、私のところに現代農業から、田植えの工夫の問い合わせが来るわけがないと思い、ビックリと若干の喜びで、電話をしてみた。「大勢でやってるらしいので、田植えの時の人員の集める方の工夫と言う意味で。」なるほど、それならよく分かる。分かるけどちょっとがっかりした。これを中国方式と言っている。農は大寨(タイサイ)に学べだ。人海戦術でやる、大勢でやれば、楽しくやれるのだ。楽しいから人が集まる。拍子抜けで、人集めの工夫か。手配師じゃないし。でも現代農業と言うと、大抵の事は協力することにしている。これからの農業にとってオピニオンリーダーと考えている。
何処までも自由である事、入る事も止めることも、時々もいいし、毎日も良い。何でもかんでもその人の自由意志である事。ここが大事だと思う。だから仕組みのほうも、滅茶苦茶でも成り立つようにしなくてはならない。その人が来ないと成り立たないような作業にしない。どれだけの人が、何時現われてもやる事があるようになってないといけない。憂鬱になって、たんぼにぶらっと来る人もいれば、歌がうたいたいから来る人もいる。力が有り余って、爆発する人だって、来れる状態が良い。来たからと言って褒められないし、疎まれない。来て働かないのも良い。人の分まで頑張るのも良い。その上、収穫したお米は必要な人が持ってゆく。やれる人がやる。必要な人が食べる。そう、ここが目標だ。そんな馬鹿な、と言う事なのだが、農業をやるなんて、どうせそうとう馬鹿げた事だ。そんな馬鹿な活動があったっていいじゃないか。でもこんな調子でやってきて、このいい加減をよしとする人がいるのだ。案外沢山いる。
田んぼの技術を再現可能なものにする。つまり、技にしない、名人芸にしない。初めての人にも可能なような整理された技術にする。これは田んぼを始めて以来のテーマです。私が技術者と言う栄えある立場では、全く理解されていないのは、残念ながら、評価通りですが、ここへきて、コナギについて見えてきたことがあります。石綿さんの田んぼの観察と、除草剤を使わない稲作りのホームページの宅急便によります。「溶存酸素」。です。コナギの生えない田んぼを見てくると、いくつかの要素があります。水温が低い田んぼ。立て浸透の大きい、みずもちの悪い田んぼ、平らに代掻きがされて、淀みがない田んぼ。入水量が大きく、流れ水で栽培している田んぼ。しばらく耕作していなかった田んぼ。畑から戻した田んぼ。そこに米ぬかを撒く、米ぬかが臭いようではダメ。酸素不足。
草の漉き込みとコナギ抑えは、結果であって観点の違いだと思う。赤木御大に失礼。漉き込みの草がいくらあっても、コナギは生える。菜の花の塊の上にコナギがびっしりと生えてきた。冬水田んぼおよび不耕起水田での成功例も、また別の要素があるので、これも併せて考えない。トロトロ層の問題は生物の問題もある。これらの抑草効果も別要素。
併せて考えると、複雑化して、見えなくなる。
「溶存酸素」山ちゃんの書かれた事の繰り返しでこれも失礼。
それらの要素が、複合的に作用しているが、問題はそれらの条件が田植え後1ヶ月間にあること。
いずれも溶存酸素が、共通要素だ。その結果としての窒素の量の問題。これはずーと考えていたのだが、山ちゃんの言葉が決め手だ。溶存酸素量を増やすこと、これには様々な方法があるだろう。そこが混乱の始まり。レンゲで成功していた田んぼを菜の花に変えて、失敗した。これは、粗起こし、代掻きが、従来と変わり、土をこねくり回しすぎたのだ。田植え初期から水持ちが良かった。ひえが深水で解決と言うのは、もう技術になっている。コナギは溶存酸素を増やす事で技術になるかも知れない。今年の田んぼはこのことに観察を集中させてみるつもりだ。課題があると、やる気が出てくる。