地域づくり、まちづくり

   

まちづくりと言う言葉は定着しているが、使い方に困る事がある。まちづくり、とか言われた時に、どうも、私のように山暮らしが本来と感じている人間には、違和感がある。当然ここで言う「まち」は暮らしの場所と言う意味で、農村でも山村でも、いい訳だと思う。この辺がまだ市民ほどは定着していないので、使い勝手が悪い言葉だ。街灯のつける場所は部落の問題だからなどと、発言すると、ちょっと抵抗を感じることもある。部落とか、村とか、は捨ててはいけない言葉だ。
その意味で、「市民が主人公」のまちづくりは二重に抽象的な意味が込められていた事になる。「住民による地域づくり」こう言えば良かったのか。なんか市民とか、まちづくりのほうが受けそうな感じがした。でも若い人は、もっと違う言葉を選ぶだろう。

地域づくりはコーディネートだ。小田原には桜並木を作り出した三つの活動がある。桑原、田島、荻窪、どの桜並木も国立の桜並木と遜色ない。むしろ住民が自発的に、やっている意味で内容的にはより美しい。しかし、この桜を植えたことが市民全体にコーディネートされてはいない。その意味付けがないのだ。富山から岐阜まで、桜を植え続けた人の映画があった。つまり、行為の意味づけだ。途中何度も新聞に掲載された。それで、出来た事だ。国立に桜守が200人もいて、樹医の勉強をし、桜の管理をしているそうだ。そのことが誇りを持って市長によって語られる。例えば小田原市長は他所の町に行って、城下町サミットを語っている。海外にでむいてまで語っている。市民として本当に恥ずかしい。お城のそばに宇宙ステーションホールをつくるサミットだ。

この地域で行われている事を、どのように掘り起こし、顕彰してゆくか。これが地域づくりにおける、行政の役目ではないだろうか。顕彰することがこの地域の方向を指し示すことになる。たとえば、農業の活性化を経済行為と限定してはダメだ。地域に農業が存在する有り難さを、地域の人の暮らしのなかで、感じられる。そんな日常を作り出すことだ。舟原の棚田を耕作する人が、今年で止めようと考えていたそうだ。それをちょっと待ってよ、この地域を里地里山地域として、取り上げてゆこうとしているらしいよ。市や県の出す案内にお宅の田んぼが映っていたよ。「ほうかい、それなら、もう一年やろうか。」こう言う事になったそうだ。田んぼがあることを喜んでいる人がいる。そのことが伝わることが必要だ。桜を植えている人がいる。管理をしている人がいる。そこを歩く人の喜びを思って、黙って桜を植える人がいる。みんなで分かるように感謝を示さなければいけない。

農家の庭はそれは美しく手入れされている。いかにもお金がかかっている、というのが分かるような庭になっている。だから、黒木の植木屋さんの入る庭だ。当然枝振りのよい松はある。お金持ちを見せているようで、何となくいやらしい感じがある。私の家の庭を見て、草刈ぐらいやってあげようかと言ってくれた人がいる。誰のものでもない、地域の道路の傍に桜を植え、菜の花やレンゲを蒔く人がいる。地域を自分の庭のように感じて、美しく整える。そうした地域に対する、そこに暮す人への思いによって美し国は作られたのだ。それが江戸時代のまちづくりの考え方だ。今は違う。桜を植えたのはお上の土地だから違法行為だと、脅かすのが行政だ。里地里山づくりはこの意識変革だ。

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