箱根町の富士屋ホテルツバメ遺棄事件のその後
ひな捕獲の支配人書類送検と言う記事が共同通信からあった。どう言う事かと思った。だってこんな寒くくなって、ツバメの雛が居るはずがない。ブログをあちこち当ってみて、やっと事件を知った。ブログの世界ではこのことが相当に話題になっていたようだ。気付かなかったのは、そばに住むものとして、恥ずかしい事だった。一緒に田んぼをやっている、箱根町に勤めている友人もこのことを何も話してくれなかった。確かに余り人に話したいようなことではない。今更ここに書く事もはばかれる所かもしれない。
ちょびまめ日記にその経緯が詳しく書かれていました。何と言う事か。一番驚いたのは、ツバメを撤去した人が、ホテルにプラスと考えた事だ。しかもその厭な仕事を、出入りの工務店にやらしている。ツバメが来てくれたら、喜ぶと思っていた。リゾートホテルなら、ツバメの巣があり、その雛に餌を運ぶ鳥の姿は、大いに集客に成ると、考えそうなものだ。確かに、ふんが落ちてきて、辺りを汚すのは困る。お客さんの頭にポトリとやったら、それはまずい。しかし、その程度の対策が取れないはずはない。
都会から、箱根に何をしに来ると、ホテルでは考えていたのだろう。こうした感覚の欠如が、何故起こったのか。ここが一番心配なところだ。自然を満喫すると言う事を、具体化するにはどんな手段があるか。これを考えるのが当たり前の事だろう。自然が人間に与えてくれるものの、重要性は増してくる。それは、人間が肉体で生きていると言う事を、再確認する事だ。ツバメの雛の様子は大抵の人に面白いだろう。テレビで見せ、手段を尽くせば、肉眼よりづっと良く観察させてくれる。ガラス越しの巣などを設置して、至れり尽くせりで見せてくれる。しかし、これはある一人の目で見たものだけだ。自然と言う物は、はるかに大きな深いものだ。
大抵のツバメの巣は、中は見ずらい。当然の事だ。フンを頭に落としてくれるし。匂いも風に乗ってくる。良くは見えないけれど、その全体から、自分の感性を通して、あらゆる物が等分に提供されている。それを選び出すのは、各々の観察者の役目だ。発見もあるだろうし、殆どは見えない。見えない者は見えないまま終わる。見える者には、そこから、宇宙まで見えるかもしれない。人の目には力量があると言う事を自然は教えてくれる。鍛えてくれる。
母方の祖母はすごい観察者だった。一日中観察だけして暮していた。だから、お爺さんから怒られてばかりいた。今日は梅の芽がこれぐらいだった。だから、明日辺り、何と言う鳥が、どの枝に来るはずだ。そんな事だけに生きていた。別段何かに書き留めることもなく、生きていた。あるときの大晦日、知らない家族が血相を変えて、尋ねてきておばあーさんに色々聞いている。どうしても病気の子供に赤ヒキガエルを食べさせないと成らないのだそうだ。何処に居るかと言うのだ。ああ、赤ヒキガエルは今は藪の何処に居るから、とすぐに探してあげた。
富士屋ホテルの事件だ。共同通信の今回の報道は評価できる。こうした追跡の調査をして、きちっと結果を報告する。これが中々できるものではない。面白そうな間だけ騒ぐ、だから報道してもらいたい側は面白そうに事件を作り上げる。富士屋ホテルは箱根の大看板だ。このことから何を学習したのか。そこが問題だろう。