箱根駅伝
正月2日は箱根駅伝を応援に行く。大きな声で名前を叫んで、応援する。ジュンダイ、とか、ニチダイ、ではなくて、小泉ラスト!とか叫ぶ。出来るだけ大声で。だから、4区の各校のランナーは調べておく。当日のエントリー変更もあるから、気おつけないといけない。大体は、箱根口周辺で応援する。4区はここからが勝負だからだ。ここからのだらだら登りが、限界に来た選手にはきついのだ。箱根駅伝はラスト3キロが勝負だ。
高校の頃は陸上に明け暮れる毎日だった。強くはなかったが、立川の方であった高校駅伝の予選には出た。東京都で真ん中ぐらいで、30何位だった記憶がある。世田谷公園が、練習のコースで。ここを10周するのが、日課だった。弱い選手だったけれど、練習の厳しさだけは負けない、と考えていた。長距離の仲間は20人ぐらいで、練習をしていた。一周すると休んで、何分と計った。あるいはインターバル走と言う事で、速度を変えながら、継続して走る。これは回復するまで、ゆっくり走ると言う事なのだが、回復が中々できず苦しかった。
そこに国士舘大学の駅伝部の選手が練習に来る。国士舘から5キロほど走ってきて、止まることなく周回を始めて、5週走ってそのまま帰ってゆく。来ると、全員で1周だけでも付いてゆこうとする。ところが1周でも遅れる。引き離される。1500メートルの記録が、5分を切る程度だった。これは確かに選手としてはすごく遅いのだが、それでも、1周だけなら付いて行けると思うのだが、それが無理なのだ。そのやたら強い国士舘大学の選手が、予選会を突破できない。世田谷には農大、日体大、駒沢、日大。と強豪がいる。運動で強い、弱い、これは努力ではどうにも成らないものがあることを教えてくれた。
日体大の駅伝部出身の大高さん。この人は近所で高圧電線の仕事をされていたのだが、もう駅伝というと、伴走車用の車を持っていて、大変な力の入れようだった。1週間ぐらい前からは、もうそわそわしてジープのような車で、辺りを乗り回し、駅伝の応援をすでに始めてしまう。これから行くんだ。日体大の応援に行くんだ。これを通る人事に報告する。差し入れを山ほど積んで、出発。伴走車が禁止になって、それはがっくり来ていた。
大高さんは区会議員をされていた、それこそ高校の怖い先輩でもあった。確か世田谷学園の体育の教師もされていたはずだ。家に遊びに行くほどだったのだが、日体大の駅伝の応援に熱中していた姿だけを、思い出す。
小泉君は東海大学の4区の選手だ。今年の東海大は1区、2区にチーム最強選手を置いて、4分を越えるリードをする。3区差を詰められる。往路優勝をするためには、4区の小泉君の力走にかかっている。良く走った。これで行きけると思った。しかし、距離変更の結果、山登りのウエイトが大きくなりすぎた。山登りで23.4キロは長い。4区が18.5キロだから、短い。ここは中継点を、湯本駅前に移すべきだ。そうしないと、これからは山登りのエキスパートをもつチームだけが優勝できると言う事になってしまう。箱根登山駅伝になってしまう。良い例が東洋大だ、5区山登りを普通に走れば、総合2位に入っていた。
走りゆく その弱き肩 幼き瞳で