手打ちそば「くりはら」

   

渋沢から震生湖の方に行く道の途中に、栗原さんがお蕎麦屋さんを始めた。先日昼時に傍を通りかかったので、寄らしてもらった。ちょっと居心地がよすぎて、離れ難いようなお店だった。栗原さんの人柄がお店の作りに出ている。凝った蕎麦屋にある、普通人には気取って近寄りにくいような、へんちくりんな雰囲気が無い。普通であって、本物である。これは簡単なようで難しい事だ。

手打ちそばと言うと、趣味の手打ちそばが流行だ。女性にはパン焼きで、男性は蕎麦打ち。先日の団塊サミットで、講演された残間理江子さんは「それでいいのか蕎麦打ち男」と言う本を書いている。データー好きの残間さんは10万人が蕎麦打ちを趣味にしていると言われていた。そばを日曜になると練習する。その出来た下手くその蕎麦を近所に配る。近所も最初はいいがアリガタ迷惑。そんな事をしているぐらいなら、福祉施設に出かけて行って、いくらかでも金を貰って蕎麦を打て。金を払えばまずい蕎麦を上手いなど、お愛想は言わないから、腕が上がる。そんな話だった。趣味は良く無い、どうせなら仕事でやれ。そんな話だった。

栗原さんの家は酒屋さんだった。お酒が何処ででも販売が出来なかったころは、酒屋もそれなりに成り立つ商売だった。私の奥さんの育った家は酒屋だ。お兄さんが跡を継いで、苦戦している。それで栗原さんの気持ちや先行きは、少し想像がついた。彼は古民家を見つけて、少しづつ手を入れていた。それは蕎麦屋への第一歩だったわけだが、直し始めた頃は控え目な彼は、そんな事は一言も言わなかった。だいぶたってから、蕎麦をうちに来てくれた何か機会に「あの民家で蕎麦屋をやりたいんだ。」ポッツンといわれた。

この人はいつか本当にやる人だなと思った。今やっている仕事が充分で無いから、蕎麦打ちに憂さを晴らす。そういう人が普通だ。残間さんのように、そんな趣味に時間を費やすのはくだらないから、有意義にやったらなど余計な事は言いたくない。お金にもならないことをやれるというのは、ありがたいような不幸だ。

ワーキングプアーと言う事が言われる。階層社会と同じ事だ。働いても働いても貧しい。豊かな社会での貧困。アメリカでも日本でも、資本主義の成り行きだろう。以前にも書いたが、外国人労働者の職域に、日本人が入らざる得ない現実。安倍首相はむなしく、再チャレンジなどと見当違いの発言で、現状をごまかしている。「貧しいのは、努力が足りないからだ、再チャレンジの機会を与えるから努力しろ。」こう言っているのだ。普通に働いて、普通に生きることが出来る社会。これは憲法25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 」と保障されている。男性50代以上が毎日36人自殺している計算になるそうだ。なんと言う不幸な社会だ。この理由の多くが、貧困。

話はそれたが、栗原さんがすばらしい蕎麦屋を始めた。もうそれだけで喜びがあふれる。あんなすばらしい空間を提供してもらい、美味しい蕎麦を食べる事ができる幸せを、感じる。電話0463-88-1070、渋沢2098番地。間違いなく、県西部で一番美味しい。食べ物は物語だ。栗原さんが紡ぎだしている物語を味わうのだろう。その昔、栗原さんはこれから蕎麦打ち修行に、何年か行くのだいう前日。みんなに蕎麦を食べてもらいたいと、道具を持ってきてくれた。その時の蕎麦はもう趣味の蕎麦ではなかった。

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