地場・旬・自給について

   

あしがら農の会設立時に、考え方があった。むしろ実体はなく、考え方だけがあった。これから始めるのだから、当然のことだろう。その時考えたことが、「地場・旬・自給」だ。一人の自給を7,8年間、山北で行った末、組織を作ろうと考えた。
このとき「地場・旬・自給」に煮詰まった。

最近、農の会は転換期に入っていると思う。農業者と、市民農、消費者(消費者というのは良い言葉ではない、しかしわかりやすいので一応、食べる人という意味で。)の関係が何処に行くのか、不安定になっている。当然のことで、農の会が試みようとしている関係性は、今までにないものだと思う。模索してゆくしかない仕組みだと思う。農業者的参加者14軒が、会の活動の中心に動いてきた。しかし、この1年運営は市民農的参加者に移行すべきというのが、千田代表の方針だった。担当別に、様々な仕事が割り振られ、その方向が始まったところだった。

農の会の主体は市民農の人達。このように方向付けられた時、農の会の農業者は会にとってどんな役割になるのか。これが見えなくなったように思う。農の会から離れて、夫々に独立してゆく、それまでの間、農の会に世話になる。ということになるのだろうか。どうも姿が見えなかった。これでは3者がよい形で協力し合うことで、地域の農業の成立を図ろうとしてきた、農の会の根幹の主旨が崩れてしまうことになる。

背景には、農業者が農家として自立することが、大変なことだという事がある。それに協力、援助してゆきたい、ということが農の会の基本理念であるにもかかわらず、農業者の農業に専念したいという思いの、足を引っ張っているのが、会の運営ではないか。こんな考えがあるのだろう。ただただ、農業だけをして居たい。この気持ちは農の会に来た誰にもあるだろう。

「自分の農業だけをしていたい。」この思いの内実を問わなければならないだろう。「地場・旬・自給」は社会的な運動の精神だ。地域全体の循環を起こしたい。自然に即した農業をしたい。自らの自給に始まり、地域の、日本の自給を実現したい。こうした社会の中での自らの位置の確認を除いて、各々の農業は成立しえないと考えている。一人だけの自給でいいのであれば、山北の山の中に籠っていた。農の会を立ち上げる事など考えなかった。立ち上がり困難だから、農の会に世話になる。一定安定したら、会の運営がわずらわしいから、関わりたくない。これは世の常だが、この利己心を乗り越えなければ、地域社会の再生は無いと思う。

農業を行うということは、社会的な経済活動だ。農地一つ借りるにしても、日本農業政策に大きく揺さぶられる。生産物を販売しようとすれば、社会的責任が生ずる。こうした、全体の仕組みに挑戦しているのが、農の会の行っている事だ。一人の農業をしたいという思いを保障する為には、そうなっていない社会を切り開いてゆかなければならない。そのために、先駆者として今までにない仕組みを模索しているのだと思う。

農の会が模索している道は、新しい方向となるだろう。それだけの社会的責任と誇りを持って、挑んでゆきたい。

 - あしがら農の会