自給と祭りのこと

   

私の住む舟原でも、盆踊りがあった。この日は例年、酒匂川の花火と重なる。私の家は少し小高い場所にあるので、川沿いにある公民館の広場が、見下ろすようによく見える。盆踊りのさみしい明かりに、シルエットのように浮かぶ人影が、テープで繰り返す、小田原小唄を踊っている。その斜め上に花火がボーンと上がる。

子供の頃の藤垈の盆踊りも寂しいものだった。ご先祖様の供養だから、物悲しいのは当たり前かもしれない。太鼓も、威勢よく賑やかだったはずなのだが、さみしい明かりの色しか思い浮かばないのだ。

舟原では盆踊りとは何故か呼ばない。納涼大会という。時々、間違って言う人もいるが、納涼大会と慌てて言い直している。この背景には何かあると思っているが、どうだろうか。詮索してもしょうがない事だ。
農の会の生産者は、互いの圃場の見学を行い、その後暑気払いを行った。これも一種の祭りといえるのだろうか。冬には忘年会がある。いずれも日常から少し離れるという意味では、祭りの要素はある。

しかし、収穫祭や夏祭りとは違う。暑気払いは祭礼的な意味がない。では、私達に祭礼的な祭りがいるのかどうか。この辺が、農の会の方向を探る上でも、大きな要素になってきている。昨年の収穫祭の後、そして、今回の夏祭りの後、同じ問題が出ている。結論などあるわけも無いが、それぞれが農の会というものを、違って理解していることが、こういう機会によく見える。

他の人の祭りに対する考え方を、解釈したり、類推はしない方がいい。きっと、夫々に暮らしの中から、発言していることだ。一人ひとり、全く違うほうがいい。統一することは、一番よくない。違ったまま調和できることが、一人一人が生かされて、その上で出来上がる、あしがら農の会なのだと思う。

自給生活には祭りが必要だと考えている。
その一番の基は、私流の自給生活は単調で、閉じたものだった。一月位山の中から降りずに、人に会うこともない暮らしだった。それもいいもので、気持ちよく、暮していた。
そんな暮らしが、5年、6年と続いた。その中で、一人の自給で終わるわけには行かない。一人の自給がこんなに簡単に出来るなら、これを地域で、実現して行く必要があると考えるようになった。自給の希望がある人が居るなら、協力したいと考えるようになった。

それが、徐々に広がる中で、田んぼの会や、味噌の会、お茶の会が出来上がってきた。この参加者は一年互いに顔を合わせる事も無い。農の会に所属していることも気付かない人もいるぐらいだ。坊所田んぼで米作りに関わって、農の会というものがあることに気付かない人がいたぐらいだ。それはそれで農の会的で、面白いのだが、時には他の人と顔を合わせ、「農の会全体の作り出す空気」を感じてもらう事は、夫々の活動を深める上で、大切な要素だと考えるようになった。
「祭り」は自給の意味を深め、高め合う場、確認する場ではないか。

田んぼの会は10あってそれぞれの独立性があり、個性的であるところがすばらしい。しかし、全く違う方向を向いてしまっても、いけないのだろう。誘導や強制は意味が無いが、夫々が、自分たちの方向を探る上で、互いを参考にし、高めあうことは必要なことだ。それが、農の会の祭りの場だと、私は捉えてきた。

若い生産者から、祭りへの疑問、農の会への疑問が生まれている。いつも販売生産者と、こうした市民的自給を目指す者とは、食い違いが起こる。生産者が、農の会の運営を行う事をやめたいというのが、今の代表の千田さんの考え方だ。運営は市民自給農の人達が担うべきだという考えだ。祭りはそういう祭り好きの人達で行って欲しい。出来れば、農の会から離れてやって欲しいという意見も出た。

販売生産者はどんなことを、農の会で行うことになるのだろう。
農業者は、独立心が強く、自立し一人でやってゆきたいと、いつも感じているものだ。一人で出来るのに、農の会で何を行うのか。当然の疑問だ。こうやって、分裂してゆくのが、新規就農者が、組織を作れない原因だ。
農の会が探ってきた。販売生産者から、消費者まで、途切れることなく繋がる組織こそ、新しい可能性を秘めた方向だと、私は考えているのだが。これもまた、次の世代の人が模索することになるのだろう。

 - あしがら農の会