しるべ展開催中
明日3日まで、『しるべ展』を銀座の月光荘画廊3・5で開いている。中々充実した展覧会になっていると思う。余り例を見ない展覧会かと思う。水彩人という絵画グループがあり、その水彩画研究会の中で、生まれてきたグループだ。
私はここに、『雪解け水』という縦12号の絵を1点だけ出している。5月に志賀高原の平床というところで描いた。水がまるで生まれてくるようにみえた。大地から、コンコンと無尽蔵に流れ出てくる。その生命感は、とどめない物で、惜しむという感じが無い。命をいくらでも放出している。自然の心の広さだ。
今生き返ってきましたと、淡い色合いのしるしを梢に掲げはじめた、木々。
眼に新しい光景が出会うような新鮮なすがた。これほど頼りない物は無いです、と見えるのだが、やはりその無尽蔵なあきれるような量によって、圧倒的な安定感を示す。
自然の営みの永遠の繰り返しが、実にはかない形で、その様相の一端を示している。
これを、出来る限り淡い形で、表現してみようとした。水彩画以外では出来ないような淡さで、やってみようとした。色が一吹きで全て吹き飛んでしまうような、軽さを持っていること。
問題は、その背景にある、絶対的な安定感。このドンとした大きさを、絵の中ではどのように、現れてくるのか。吹き飛ぶ羽根を集めて、巨大な岩石を描くような、安定の表現。
筆触にそうした表現は託される事になる。筆跡はすべてのことを確かに語らなければならない。全ての筆触が矛盾なく真実に反応していなくてはならない。淡い色調ではあるが、筆触はあいまいな物ではなく、明瞭な意志によって、重ねられてゆく物でなければ。これは対象を見ている、作者の呼吸の反映でもある。
このような表現は水彩画以外では不可能だと思う。書道であれば少し近い事はできそうだが、油絵や日本画では、この呼吸を伝える事は難しい。
以上のような絵を出品した。これは、残念ながら、写真では伝わらない。やはり現物を見てもらうしかない。紙の持つ物としての感触が、写真ではなかなか伝わらない。
今日、明日は、批評会がある。私はこれが重要だと考えている。絵を描くまではいい。また発表するのもいい。しかし、作品を徹底した相互批評をする、これが成立した場が少ない。だから私は、個展をやるのを止めた。年に2,3回開く事を、何十年も続けたが、止める事にした。絵のことをとことん語り合える場、以外で発表したところで、意味が無いと考えるようになった。
作家にとって個展が営業の場という意味合いがあるので、本音で絵を語り合うということが出来ない。これは馬鹿げた事だ。友人の絵を見て、本音で絵のことが語り合えないようでは、行った所でしょうが無い。さすがに私のような無神経なものでも、この絵を買おうかなというお客さんがいる前で、この絵はよくない。とは中々言えない。
だから、展覧会はグループ展に限る、しかも、批評が何でも出来る自由な空気があるグループ展がいい。そんな展覧会に、『しるべ展』もなってきたような気がする。