町の大きさ

   

暮らしやすい町の大きさというものがあると思う。先日、NHKの喉自慢番組の話で、番組としていいものが出来るの町が、10万人から20万人の町なのだそうだ。これはヒントになると思った。小さすぎる町だと村祭りのような身内の感じが強くでる。大きすぎる町だとしらっとしてしまう。そうだ。

小田原は20万人、箱根町1万4千人、真鶴町8千人、湯河原町2万7千人、西湘地区合計が25万人
南足柄市で4万4千人、山北町で1万3千人、開成町1万5千人、大井町1万7千人、松田町1万2千人、中井町1万人、足柄上地区の合計が11万2千人
これから人口は減少するのだから、それぞれ一つ町になることは悪く無い規模かもしれない。

今、合併が盛んで、町の意味合いという事が、行政上の都合が中心で町が一まとまりとされる。当然この地区でも、合併論議は盛んだ。合併すると行政経費が節約できるらしいが、これも実際の効果が示されているわけではない。
ゴミが広域処理になれば経費が掛からなくなる。これは明らかな計算ミスだ。遠くまで運ばざる得なくなるので、新たに運搬費のように掛かる物が出てくる。ゴミの減量化は小さい町ほど可能なので、大きくなって、他人事になったときにはゴミは増えてくると思うが。

私が今まで住んだ町を並べてみる。町とはいえないが、山梨県の今笛吹市になった山村藤垈、東京に4箇所。金沢。ナンシー、パリ、山北、小田原、これが1年以上住んだ町。一番長くて、山北の13年。小田原は8年目になった。住みやすいと感じたのは、小田原という事になる。一番の要因は町の規模だと思う。20万というのがすれすれ、具合がいいのだろう。知った人もいるし、知らない人も居る。山北にいた頃は知らない人はいないという気分で暮らしていた。

東京は暮らすところとは思えなかった。仕事をするところで、暮らしは感じなかった。ナンシー、パリは1年半づついたのだが、暮らしいいところとは思えなかった。私の中で、暮らしを考える原点になっているのは、やはり藤垈。しかし、町としての要素は無いといえる。町は町の魅力と、必要がある。ここでは、街かもしれない。

街が甲府という距離関係では、やはり暮らしは不自由な物だ。街には、図書館や、病院や、商店や、役所があって、人が集まり、暮らしの改まる場所。だから、よそから来る人を当てにした町というのは、そこに暮らす人にとっては魅力が無い。小田原の将来像が定まらないのは、ここなのだと思う。城下町とか、箱根の玄関口と考える基本に、よそから来る観光客を意識してのことだろう。

これに期待するのは、お土産屋、旅館、商店、などで、町を構成しているんほんの一部だ。街づくりと言った時、この一部に眼が行ってしまうので、魅力的な提案が出来ない。

何故そうなるかといえば、そこが今行き詰っているからだ。かつて、それなりの規模で行われていて、勢力がある。財力もある。だから、コンサルタントなどを使って、小田原の街づくりを提案する。しかし、大多数の普通に暮らす市民にとって、しらけるばかりなのだ。勤め人で、小田原で暮らしている殆どの人には、街という機能を考えた時、子育て支援センターであったり。町ならではの買い物であったり、カルチャーセンターだったりする。

自分の経済生活が土台から違う大多数の市民と、経済基盤をそこに置く、商業者とその周辺では、意識が違う。少数派の商業者にウエイトを置かざる得ない発想だから、将来像が、見えてこない結果になっていると思う。将来の見えない、ところが行き詰まって、将来像を探している。それを主体性の無い、行政はなぞっているに過ぎない。

市の片浦地区の将来像の提案を見ると、実に通り一遍な事が分かる。本気でこの地区を、評価し、活性化したい、という思いは少しも見えてこない。
小田原が、あるいは西湘地区が魅力的な、生活の場になる為には、片浦地区ほど有効な場所は無い。何故、このことに気付かないのだろう。

喉自慢がいい番組になるような街、これは確かにイメージできることだ。

 - 身辺雑記