ドミニカ移民訴訟

   

2007年問題、2007年に始まる団塊世代の大量退職、つまり1947~49年に生まれた人たちが60歳定年を迎える。私は49年生まれだから、この世代の一人だ。自分がこうした人の溢れるような中に生まれたことは、良かった事のような気がしている。私の生まれた、山梨の山村でさえも沢山の子供がいた。子供達は集団で遊んでいた。

人が多いいということは大変なことで、日本も移民という政策がとられていた。特に山村では満州に移民した人はかなりいて、戦後戻った家族も同じ村にいた。戦後開拓の部落も作られていた。さらに、ブラジルや中南米に渡って行った人もいた。満蒙開拓、戦後開拓、ブラジル移民と3度の開拓人生を、テレビで見た。

ドミニカ移民がどれほど大変なものだったか、聞いていると思わず目頭が熱くなる。塩を吹く土地をどんなに苦労して耕作したのだろう。不毛の地を与えられ、苦闘した人生を思うと、私まで申し訳なかった気がしてくる。それにしても、政府の方針の悪さは目に余る物がある。

私の親族にも、アメリカに移民した、お婆さんの妹さん家族がいる。既にアメリカのサクラメントという所へ移民していた人のところに、お嫁に行った人だ。写真だけで、様子も分からず、お嫁に行たそうだ。S35年頃一度家族で日本に戻った事があった。戦争中に、強制収容所で大変苦労された事、しかし、親切な隣人が農場を守ってくれていて、戦後無事に戻れた事など話された。

日本移民の人達が、田んぼを沢山作ったので、気候まで温暖湿潤に変わったという事を聞いた。政府の移民政策で国外に出てゆく、この背景はやはり、今日本に来る人達と同じで、国内で生活ができないからだ。しかし、何故、移民政策などという馬鹿げたことしか思いつかなかったのだろう。

日本人の不幸は明治政府の富国強兵政策に始まると思う。江戸時代のことは、明治政府の意図的な宣伝で、貧困と一揆の時代のように、作り上げられた。江戸より明治の方が、国民にとっては苦しい時代だった。国が軍を作るために、大きな税を課し、絞り上げられるだけ絞り上げた。これを正当化するために、江戸時代が封建的で、いかに困難な時代だったかを、教育していった。

それに続く大正も、昭和も、今の北朝鮮と変わらない、軍備の肥大化した、不幸な時代だ。その結果が、移民政策につながる。国内の貧困を、解決する手段が見出せなかった。安易に政府は移民政策に頼った。移民先の詳しい状況も調べず、ただ、移民数の達成だけを目標に、進められた政策だ。ドミニカの場合は外務省は不毛の地であることを把握していた。それを公表しないまま進めるように、指示している。

これはドミニカだけではない。パラグアイでも同様のことがあると聞いた。ブラジル移民でも、アマゾンの奥地の不毛の地が割り当てられた、人達もいたという。

全ては、政府の無策に始まる。ドミニカ移民は50周年だそうだ。何故国内で人口を吸収する、政策が考えられなかったのか。今思えば、いくらでも方法はあったはずだ。政府には50年先の日本が見えていなかったのだろう。見えないだけでなく、方向を見失っていたのだろう。

今の日本はどうか。同じような誤りを犯していないか。私には、国内の農業政策は、食料政策は、同様な過ちを犯しているように思える。国の指針を誤る事は、どれほどの苦難の人生を作り出すか。ドミニカ移民は示してくれている。

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