生きることをやりきる

人はどこから来て、どこへ消えて行くのか。これを考えることが仏教者の一番に行うことであると道元禅師は言われている。あと長くても二〇数年すれば消えて行く。人間が消えて行くのは生命の持つ摂理だから、受け入れたうえで、どう考えれば良いかの問題になる。
消えて行くまでの日々をどう生きるのかと言うことを考えている。考えていると言うより、不安に思いながらその煮詰め方を思っている。しかし、日々全力で生きると言うことの行き所がなかなか難しい。まったく不明なことだ。良い絵を描くと言うことなのか。多分そうではない。
限りある命の残りの日々を十二分に生きたいと思うことだけはたしかだ。今その消えた先のことなど考えたところで無意味なことだ。今生きている事をどう充実させることが出来かだけを考える。生きていることを噛みしめて、残りの時間で何をするのか。只管打画ということか。結局やりたいことをやりきることか。
十分に生きると言っても実際の所、生きていると言うことはほとんど無駄なくだらないことの連なりである。なるほど有意義に生きたというような確かなことなどほとんどない。生きる充実はどこにあるのかを探している。その先に只管打坐と主張した道元の生き方は道理にある。
死んで消えて行くという、むなしさだけが確かな事実としてある。生きている今にかろうじてしがみついて居るように絵を描くということがあるのが私の日々である。死んで行くことを残念なこととか、嫌なことだとか思わない事はできる物なのだろうか。
しかし、実際には私が描いた絵など、私が死ねば消えてゆくだけの物だ。偶然のように残ったところで同じことだ。私がどこまでやれたかという恥をさらすだけのことになる。それが現状の絵のような物のじったいだろう。それを仕方がないとはさすがに思えない。
なんとしても、もう一歩進まなくてはならない。そう思って生きている。道元禅師は極めて理屈っぽい人だと思う。正法眼蔵は難解という以上に、理解不能な書物である。まともな論理の人だったのかとさえ思う。あれほどどうでも良いようなことの詰まった書物が果たして正法眼蔵なのかと、思ってしまう。
何度も正法眼蔵を読もうと挑戦したが、その都度挫折した。理解が出来ないのだ。理解力がないから理解できないという以上に、論理とはいえないもので書かれている。分かる部分と言えば、様々な作法である。まさに箸の上げ下ろし、顔の洗い方、歯の磨き方、等々の生活のすべてが難解な言葉で、細かく細かく書かれている。
実際の生死に関わることが一番重要だと書きながらも、生死を究る事が、箸の上げ下ろしと言うことになる。修行する人間一切の行動から、意志を取り去ろうとしているように思える。仏道に生きるものは石になり、一挙手一投足をこの規範に従い日々を過ごして死ねば良いと言うことのように読める。それでも、曹洞宗の僧侶なのだから、もう一度読んでみようかと思っている。
確かに絵をもう一歩進めたいと言うことはある。と言っても進む先はあやふやな世界だ。どれほど描こうとも進んでいるのか、交代しているのかが見えない。上手になれば良いわけではない。評価されれば良いと言うこともない。自分の納得と言うことなのだろうが。この辺りが禅と似ている。
描いた絵が自分が描いたとほこりをもてるところにまで進みたい。昨日より今日である。今日描く一枚に期待して、進んでみるほかない。絵など描いていては、道を誤ると言うのが道元禅師の教えである。確かにそうらしいと言う感触はある。しかし、只管打坐に徹すると言うことは人間として生きるということを止めると言うことでもある。庭石になれと言うことだ。この矛盾を得度して以来60年近く考えてきたことになる。
絵を描くという目的と同時に、のぼたん農園の完成がある。自給の暮らしの実際を形として作り上げたい。これも欲の一つなのだろうが、やり遂げなければおもしろくない。そこまでやらなければ、今まで何をやってきたのかと言うことになる。
人間の未来に期待しているからなのだろう。人間は様々な思想の元に社会を作ってきた。原発事故が起こった。コロナパンディミックが起こった。ロシアが侵略戦争を始めた。すべては資本主義が限界まで到達し始めた結果はと見て良いのだろう。
中国の国家資本主義が競争に有利となった。もう一つが資源国だけが豊かな国になる。自由競争が限界になり、起きていることだと考えられる。真面目に正直に働いていれば、普通に生きていけるという状況は遠ざかっている。要領の良い、小賢しい人間だけが豊かになる嫌な社会。道元禅師は貧しいことが大切だと書いている。
資本主義の限界が人間の倫理を壊し始めている。にもかかわらず資本主義の次にある経済の姿が見えてこない。中国は共同富裕をかかげながら、その実態はすさまじいほどに貧富の差のある社会である。これは極端な経済成長のひずみかと思われるが、実態はさらに悪い方に進んでいる。
歪んだまま中国はより独裁国家となり、世界への影響を強めている。世界の状況がより中国を独善的な国家にしていると言うこともあるのだろう。中国も遠からずその独善のままには進むことが出来ない時が来る。独裁という形は必ず失敗が伴う。
プーチンも失敗したが、独裁のためにそれを正す仕組みがない。正す仕組みがなければ、最悪の暴発まで進まざる得ないのだろう。戦争という物のくだらなさを痛感する。それが人間のデタラメなのだろう。中国が同じような失敗をしないことを願うばかりである。
人ごとではなかった。自分のことである。自分がやりきれるかであった。やりきるためには、人の手を借りなければならない。多くの人と交わり、多くの人と共に進めることだ。それ以外に自分という物を生かす道はない。禅も修行道場を作り、一人でやってはならないというのはそのことだろう。
禅は道元の書いた書物を読んでも病気かと思えるほど独善である。人の爪楊枝の使い方などどうでも良いはずである。それが黙っていられない人である。こういうある意味病的な人が、一つの宗教を作り出せたのはまわりの人の御陰だろう。
回りに良い人がいたので、曹洞宗という宗教は成立したに違いない。人間をみがくには人間という砥石が必要である。里芋の皮むきのように、人間どおしが擦れあって始めて、丸みが出てくる。皮が向けで本質が現われてくる。良い仲間を大切にすることだ。