悟るということの科学

   



 道元禅師は座禅を行い、悟りを開かれた。そして只管打坐という修行方法を提唱した。曹洞宗の僧侶端の恥で菩薩道に生きてきたつもりだ。しかし、悟りのみちはと言うと、まったくほど遠い状況である。この先も、そういう領域には到達することはないと思っている。エセ坊主である。

 それは只管打坐という修行が出来なかったからだと思わざる得ない。絵を描いているのだから、それは無理なことになる。雪舟だって無理だったにちがいない。絵を描くことが何より好きで、やればやるほどおもしろくなっているのだからどうにもならない。

 只管打坐どころではないわけだ。絵を描いてはならないという、修行の道は諦らめほかない。道元禅師の言われるとおりだと思う。絵など描いていたのでは悟りの世界は遠のくばかりである。では一体悟りの世界とはどういうものだろうか。

 その科学的な分析で一番近いものはランナーズハイに関連があると思っている。ランナーズハイとは長距離を限界の速度で、45分以上走っていると訪れることがあるものらしい。高校時代は長距離の競技をしていたから、限界を超えて、45分以上毎日に近く走っていた。それでなんとなくは感触だけは想像できる。

 しかし、体験者が説明されるような強烈なランナーズハイは経験はない。限界まで走っているのに、疲労感が消えて、どこまでも爽快に走って行けるような感覚らしい。その原因はエンドルフィンという脳内物質が発現するからだと分析されている。

 エンドルフィンはモルヒネと同じような麻痺作用があり、肉体的な苦痛を取り除いてくれるらしい。何故エンドルフィンが現われるかと言えば、人間が何十万年も野生動物を追いかけて、走り続けた時代の体験の結果と推定されている。

 人間はそう強い生き物ではなかった。足も特別に速い動物でもなかった。しかし、集団でひたすら獲物を追い続けることが出来た。この長距離走のような狩猟に着いていけないものは集団から脱落しただろう。まさに千日回峰行を人類の祖先は行っていた。

 そうして、淘汰選抜されて、生き残った人類は長距離を走り続けて苦しくなると、エンドルフィンが出て、苦しさを乗り越えることの出来た人類だけに選抜されていったと想像されている。それが、何十万年繰り返された結果、今生きている我々の中にも、長距離走の結果エンドルフィンが出る人類が残ることになった。

 エンドルフィンが出る人が一流のマラソン選手なのだろう。アフリカ系の選手がマラソンでは圧倒的に強い理由もその当たりにある可能性がある。おじいさんの代くらいまでは、走って猟を続けていた人達がいるわけだ。そういえば、長距離を走る成人の儀式をする部族もあるらしい。

 あの千日回峰行はまさにエンドルフィン発現の修行のように見える。限界を超えて走っている内に、そうした特別の体験に至るのだろう。そうしなければ生き残れない修行だとすれば、苦行の意味も科学的に分析されるのかも知れない。

 と言っても、エンドルフィンが大量に出る人は数少ない。普通の人であれば、ある程度は出るが大量ではない。だから長距離の選手を目指していたときに、ある程度は感じる事があった。苦しくなくなる瞬間がたまにある。走る苦しさには限界があるが、もうだめだという先がある。

 自分なりの限界を超えることが出来た経験はある。いくらかエンドルフィンが出たのかも知れない。その走ると言うことと、まるで違う座るという修行法では何が起こるのかである。座っているのも、走る以上に辛い苦行である。足がしびれて痛いと言うこともあるが、ただ座っていると言うこと自体が耐えがたいところがある。

 ひたすら座っているとエンドルフィンが出るかというと違うと思う。違う脳内ホルモンが出るのだと想像している。じっと待ち耐える、脳内ホルモンである。たぶん人類の祖先達は静かに穴の中で、空腹に耐えていた時間が長いのだと思う。

 気候変動もあれば、空腹で飢え死にする事も多かっただろう。じっと横になり体力を消耗しないように耐えることが出来た人類が生き残った。座禅をしている人はの食事量は限界以下である。科学的には生存できないカロリーだから、虐待であるので禁止すべきと言う意見もある。

 しかし、座禅をしている僧侶はエネルギーの消耗が極端に下がる。座るのにも体力はいるのだが、精神を統一していることで、エネルギーの消費が小さくなる。つまり、穴の中で空腹を抱えて、獲物を持ち帰ることを待ち続けていたのが人類である。走り続けたのが男性で、座って耐えたのが女性だろう。ライオンの逆である。

 たぶん待つ力の強い者には耐えるホルモンがやはり出るのだろう。エンドルフィンとは又違うホルモンの可能性もある。まだ発見されていない脳内物質もあるだろう。消耗しないように待ち続けていると、ホルモンの出現の御陰で、空腹を忘れてエネルギーの消耗もなくなる。その当たりに、なんとなく悟りの感覚が近いように感じる。

 ここまでは科学的想像であるが、ではどうしたら良いかである。悟りにはほど遠いが、到達点にまでたどり着きたい。それは絵を描くことである。悟りの心境で描く絵に出会いたい。そんなことがあるのかどうかは分からないが、目指したいと考えている。

 そしてその方角を進むために、動禅があると考えている。動禅は全体で45分ぐらいだ。最低このくらいの時間やらなければやらないのは同じだ。動禅の中でも8段錦の背伸び体操を工夫した。背伸びを長時間続ける。普通は12分続ける。18分やる日もある。

 それは終わりを待つという意識だ。終わりは来る。必ず来るが耐えて待たなければならない。猟が成功して獲物が手に入るかも知れない。それをただ待ち続ける。待つ力である。待つ力が強くなければ、早く死んでしまう。待つ力の強い者が生存競争を生き残る。

 待つという力を育てる。我慢する力を育てる。これが背伸びの動禅である。座禅も同じではなかろうか。これがぬるま湯につかっている。ぬるま湯瞑想では終わりを待つどころか、いい湯だねと長湯するのが落ちだ。何かに達するためには我慢する要素が必要なはずだ。

 千日回峰行も、最後に比叡山中の明王堂にこもり9日間、断食、断水、不眠、不臥で不動真言10万回を唱える。走り続け、穴に籠ること九日。まさに人類の祖先の暮らしの再現である。そこに何かホルモンが出て生き残ることが可能になるのだろう。

 私にはそういうことは出来ない。その力もないし。そんなことは実は無駄だと思っている。自分の出来ることで後はやるつもりだ。それが動禅である。遊び事のような行ではあるが、自分らしくて続けている。どれほど千日回峰行が素晴らしくとも続かなければどうにもならない。

 私の行は千日どころではない。絵を描くことはもう65年は続けている。自給農業も38年続けている。続けていることをどのように行に出来るかが、重要だと考えている。絵を描くことが行であれば、とうの昔に大阿闍梨である。

 

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