絵が先か、人間が先か

   




 アトリエカーの中を少し配置換えをした。車を車検に出したので、その時に一度アトリエを荷台から下ろした。荷物を一度外に出して、車の中で使うことがなかった物を取り除いた。この狭い空間が私の禅堂のようなところだから、物の配置はかなり大事なことになる。

 水彩連盟にいた頃、絵の批評をしてくれと言われたので、絵の批評をしたら、この歳になって人間に問題があるなどと言われるとは思わなかった。と激怒されたことがあった。確かに絵は人間が描く物だと説明した。絵は人間次第とも言った。

 絵を批評すると言うことはその人の人間を批評していると言うことになるのかもしれない。私の人間を批評して下さいと言うことだから、なかなか大胆なことになる。もし人間と絵が切り離されたものであれば、それは絵ではなくて、絵の技量を見て下さいと言うことになる。

 褒められたいから批評してくれと言うことが良くある。やはりそういう人となりが絵に現われていた。褒められたがっている絵だと批評をした。絵は人間が現われるとも説明した。これが合わさって、絵が良くないのは人間が良くないからだとと言うことになったわけだ。

 ちょっと意味は違うのだが、そう解釈できないことも無いなと思い、弁解はしなかった。その通りだとあえて言った。批評を頼んで、怒り出すぐらいなら人に批評など頼むなとも言った。絵を批評するときに、心にもないことを言うことは自分の絵画を貶めることだ。

 絵の批評に関しては本音以外にない。それは立場も、ないし身分もない。絵と対峙するだけのことだ。絵について本音以外のことを言うことを、自分に禁じている。どのように思われようが、自分が感じたことを言うことに決めている。絵を描く物として守らなければならない、当たり前の姿勢だ。

 しかし絵が良いというのは難しいところがあって、良い人間だからと言うことは関係がない。人間が怪しげ過ぎて、絵がすごいと言うこともある。自己顕示欲のお化けのような人が、絵を描いていることが良くある。そういう自己陶酔したような絵は気持ちの悪いものだが。嫌らしくたって絵になっていることがある。

 人間が立派であると言うようなことと絵は関係がない。立派だから絵が立派になると言うことはない。人間がダメだから絵が良いと言うことはある。ゴッホだって、セザンヌだって、ゴーギャンだって、人間は相当に困りもんだったらしい。余りに絵に一途な人は、大抵はまわりとしては困る人。

 そういうことを書こうとしていたのでは無い。良い絵を描くにはどうしたら良いかを書きたいと思って書きだした。そのことが分からないので、良い絵を描く方法は人間がどうなれば良いのか、分からないということを書きたかった。

 はっきりしていることは絵は技術的な問題が大きい。技術がないというのは論外のことで、絵を描く以上自分の技術を確立していなければ話にならない。技術は確立した上で忘れなければならないものだ。絵の問題とはその先の問題のことだろう。

 やはり水彩連盟の講習会の席で、ガラスの透明な感じをどのように表現したら良いか教えて欲しいという質問があった。よく見て、なぜ透明に見えると火という科学的仕組みを認識出来るかどうか。もし出来たならば、そのとおり描けば良い。その通り描けないとすれば、その技術を訓練するほかない。

 質問した人は、何色の絵の具をどのくらいの水の量で溶いて、どの部分を絵の具を塗り、乾いたならば、次にどの部分をどう塗れば、ガラスの透明感が出ます。と言うような回答が聞きたかったはずだ。そうだと思うが、さすがに無意味なことを口にしたくない。

 最近の水彩画の技法書というと、そ言う実に絵でなくなる技術の説明をしている。詳細な、何色にわずかに何色を加えて、乾いた何色の上に塗ると、こういうことになる。と言うような技術説明になっている。絵にそんなことは無意味どころか、害悪だけになる。

 薔薇の描き方。水の描き方。雲の描き方。そんなやり口を次々に身につけたら、絵はおかしくなるばかりだろう。そ言う手口を一切忘れて、素朴に見て、絵を描く目で見て理解する、次にはそれを完全に忘れて、記憶の底に焼き付いて残ったものを描く。そのためには、自分のやり方を発見して描くほか無い。

 今頭の中で薔薇を想像して、絵として描けるように思い出せるかである。そうでないなら薔薇を描く必然がない。その時に薔薇の描き方の見本が出てきてしまえば、終わりなのだ。水彩画技術とは、自分の頭の中に描いた絵を表す技術なのだ。頭の中に他人が発明した方法が再現されるようでは、それは自分の絵ではない。

 頭の中にマチスが湧いてくる。中川一政が湧いてくる。これも同じくだめなのだ。もっと深刻に始末に負えないかもしれない。そんな他人の作った絵というものの一切を匂いを打ち消すことが、自分の絵に至る重要なことになる。何が、自分の眼が見たものか。ここに迫るほかない。

 それぞれの人間は多くのことを子供の頃に見ている。子供の頃に見ていない者には中々見ることが出来ない。今更大体のことは手遅れでだめなのだ。私はどうなのか。本気でその当たりが心配なのだ。子供の頃観た世界は安寧の世界だった気がする。

 絵を見るのではない。子供の頃に見た記憶。これが絵の一番重要な「見る」だと思う。子供の頃に重要な画像を受け取っていないと絵は描けない気がしている。記憶の中に印象的に蓄積されてきた世界が、絵になる種のような気がしている。これは絵描きの資質に関わることなのだろう。

 音楽家の耳が特別なことと似ている。パリで特別な才能の人と言われていた作曲家の日本人が、1時間ぐらい公園に座っていて、その鳥のさえずりなどを楽譜に再現できると言っていた。耳の記憶能力がまったく違う。たぶんそれが作曲家の基本的な資質なので、それで音楽が表現できるとは限らない。

 ボナールは街ですれ違った人の姿を家に戻ってから描いていたそうだ。そのスケッチを見た人はどこの誰だか分かったそうだ。画像の記憶が特別でないと、絵は描けないのかも知れない。ボナールの記憶の画像はボナールの絵になっていたはずだ。

 記憶の画像が写真のようでは画家には不向きで、写真家向きかも知れない。記憶の画像が絵にならない人は、たぶん絵描きは無理なのだと思う。さて私はどうなのか自問するところだ。そのことがあるから、時々山梨に絵を描きに行く。子供の頃見ていたものを確認したくなる。

 記憶の中の画像を絵に描くためにはあらゆるものが描ける技術を持っていなければならない。自分の技法の限界で絵がつまらないのか。記憶の画像自体がつまらないものなのかが判別できない。記憶の画像は目の前で見えているものと重なって行く。

 毎日一枚である。絵が深まれば、人間も深まる。人間が深まれば、絵も深まる。どちらも重なる。切り離せない関連がある。ひたすら絵を描く以外にないと言うことはかわらない。

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