未知に挑戦する面白さ

初めてのことをやることが一番おもしろい。出来ることをやるよりも、やったことのない世界に踏み込むことの方がはるかにおもしろい。エジソンは「失敗をしたことは一度もない。このやり方では出来ないと言う事を知っただけだ。」このように語ったそうだ。
のぼたん農園で起こることは未知のことが多い。水牛を飼うと言うこと自体が、初めてのことだった。水牛はおもしろいことばかりだが、未だによく理解が出来ない。水牛を一年間紐でつないで飼っていた。放牧地にをつくり、水牛を放牧に変えた。これは大冒険の一つだった。水牛のことがいくらか理解が深まった。
数週間あれこれ考えていた。いつも紐でつないでいたときにはいがみ合って、何時喧嘩が始まるかと2頭を近づけないように注意していた。放牧したら上下関係がはっきりして、争わなくなった。水牛は群れで暮らす動物だと思いながらも、放牧するまで、不安で成らなかった。
すごい角の、すごい体重の2匹が喧嘩をしたらどうなるか。どちらかが大けがでもしてしまうのでは無いか。それが怖くて、近づけることが出来なかった。ところがなんと両者を紐から解放したら、なんとなく序列が出来ていて、喧嘩はなしだった。
以前、福仲先生が、両者を近づけてわざと喧嘩をさせて、上下関係を決めていたことが、放し飼いにしたときにその序列付けが生きてきた。あの両者を対決させたときは恐ろしかった。角同士がぶつかり合う、すさましいがっんガツンと言う音が響き渡った。
あの時両者の近づけ方は絶妙だった。上下関係を決めさせながら、ケガをさせない距離感。さすが長年水牛を飼ってきた実力を感じた。とてもあの芸当は出来ないと思う。人間の力などでどうなるものでもない、圧倒的な体力である。それを鼻綱だけで上手くコントロールさせる。
今も水牛には短い鼻綱を付けてある。時々それを引っ張って誘導している。水牛は心根が優しい動物だから、よくしたがってくれる。時々人間の存在を思い出させておいたほうがいいだろう。一日1回はよく触って上げる。子供の水牛はやたら自分の力を占めそうと角で押してくるが、これも適当に相手をしてやる。
人間に自分の強くなったところをアピールしているということらしい。実際には人間の力よりはもう強くなっている。しかし、牛というものは顔の位置で大きさを決めるらしい。だから結構人間が自分より大きいと思い込んでいるらしい。そういえば、桜と若葉は頭を上に延ばして大きさを争っていた。
田んぼのこともそうだ。のぼたん農園の耕作法はまったく手探りである。気候も違う。土壌も違う。水も違う。参加者はほぼ未経験な人ばかりだ。その上、なかなか個性派揃いで人間も違う。この中でどんな方向に舵取りをしてゆけば良いのか。
人に言われたことはやりたくないという人もいれば、言ってくれなければ何も分からないという人もいる。同じ人が言葉としてはその両方を言うこともある。私の教え方は教えないという教え方である。一通り説明はする。それを聞いていないでもかまわない。
渋谷に会った洋画人体研究所の安田先生は教えない主義だった。デッサン紙を裏で描いていた人がいた。神が裏だと教えて上げたらどうだろうという人がいた。先生はそのくらいのことを自分で気付けないようでは始まらないと言われた。
すべてのことは自分で考えないことは身につかないからだ。田んぼのことは田んぼで働く身体が、教えてくれることになる。どんなことでも他人がこのようにやりなさいと決めつけることが一番悪い事になる。それでもどうやるかを言わないのだから、何も分からないということになる。分からないからおもしろいと言うことより、回答を聞きたがる。
現代社会は指示待ち人間が増えたと言うことらしい。と言われても正直困る。それぞれが考えてやって下さいと言うぐらいの指示である。やり方は本やネットで調べて、分からないことがあれば、聞いて下さいと言う当たりが一番良いのだが、そうも行かないので説明だけはする。その説明は自然のほんの一部のことに過ぎない。
指導者がいない学校が良い学校である。自学自習である。知りたいことは先生を呼んできて教われば良いことになる。本来学校は教わる者が作るべき仕組みなのだ。今の日本では教える側が作るからおかしな学校になる。
まして国が必要な知識を決めて、教えたい事のための学校を作るのでは、かなり困った学校になる。義務教育に英語が取り入れられる。アメリカの支持なのか。政府の忖度なのか。もうしばらくで自動通訳機が実用化するはずだ。
田んぼの失敗はそれではだめだと言うことを学んだという成果なのだ。エジソンの言うとおりである。いつも成功している道の先にはたいした結果はない。せいぜい世間並みである。出来ないことを毎年確認しながら、ついに出来る方法にたどり着く事が大冒険だ。
ひこばえ農法はなかなか魅力的な方法である。2年に7回の収穫があって、田植えがいらない方法だ。10の田んぼがあれば、毎月稲刈りがあり、毎月新米を食べることになる。自給にはもってこいの石垣島でなければ出来ない農法になるとおもうが、まだみんなには了解が取れていない。
素晴らしいのぼたん農園の自給のためのひこばえ農法が見えている。ひこばえ農法をなんとしても実現したい。この大冒険のためにまだまだ試行錯誤を続けたいと思う。まだ始めたばかりだ。それでそれなりの収穫を得たと言うことが、そもそも想定外なのだ。
天水田の耕作につて、与那国島の昔の農法を大分調べることが出来た。なかなかおもしろい農法である。最小限の水を有効利用する素晴らしい方法である。この方法も水の少ないのぼたん農園で実現しなければならない目標である。
一年中水を切らないで、稲刈りの時も水のある状態で田んぼを乾かさない。コロガシを必要な状態で入れて行く。この一年中水のある田んぼの状態がのぼたん農園の姿になる。雨が降ればコロガシを入れる。田んぼの水面は一年中水草がある。
このアカウキクサが窒素を固定して、田んぼの肥料になる。光合成細菌を継続的に作りたいと考えている。光合成細菌の窒素固定能力を生かして、田んぼの肥料を作り出す。そこまで進めば、外から肥料を特別に入れる必要はなくなる。
今書いていても夢のような話だと思う。田んぼの中で自然の調和の取れた循環が生まれる。何千年と繰り返して行ける農法である。田んぼは自然環境を大きく変えることなく生産が可能だ。循環する永続農法が出来ると考えて挑戦して行くつもりだ。
田んぼにはまだまだ未知の世界がある。これから地球は水不足になり、熱帯化して、食糧不足になる。それをしのぐことが出来るのは、唯一のぼたん農園の自給農業である。本気でそう思っている。いつの日にかは世界中からこの農法を学びに来る。