自然に接して暮らすこと

   



 人間がここまでダメになったのは、自然への関わりが無くなってきたからだ。日本では自然災害が頻発している。縄文時代も今も変わらず自然災害が起きていたのだろう。それでも、今ほど災害が起き続けると感じながら暮らしていることはなかっただろう。

 理由は情報化社会と都市化した社会で暮らしているからだ。人間は都市の中で暮らしていると人間性が生長することがない。都市に於いて唯一存在する自然は人間である。それ故に人間との関わりを減少させると、その時から人間は感覚を硬直化させ、成長をしなくなる。

 自然を遠ざけた都市の中で暮らしている人間性の極めて乏しい人達が今の日本を作っている。例えばテレビを作り出している忙しい人達は、時代を作り出しているような意識でいることだろう。ところがこうした大半の人達は自然から切り離されたことで、人間性は頭で作り出した見せかけだけで、実は枯れている。

 人間性を失った人達が作る幻想社会が今では、社会として認識されているのだろう。それは報道の人達、企業の人達、政治に関わる人達、官僚の人達、すべてに言えることと考えるほか無い。そういう日本の空気を作り出している人達が、自然の中で暮らしている人であれば、こんなおかしな社会にはならないと思う。

 自然は人間の手ではどうにも成らない物だと言うことがすぐに分かるからだ。「自然は従い、その摂理を知り、折り合いを付けて暮らす。」ものなのだ。天水田をやっていれば、すべては自然現象に従う以外にないことが分かる。雨を降らすことは出来ないのだ。

 本来人間が生きて行くと言うことは、どうにもなら成らない中で、繰返し痛めつけられながらも、切り抜けて行くことが暮らすと言うことなのだ。35歳から、自給のための開墾生活に入り、いやというほどそのことを思い知らされてきた。

 明日からの食料になるはずの田んぼが、ある日青天の霹靂でイノシシによって全滅にさせられる。それでも食料を手当てして何とか生きなければならない。これが自然の中で暮らすという現実である。何も確約されたことはない。

 あらゆる困難を想定しながら、生き抜ける道を編み出すほかないのだ。そのことから、生きるという意味がだんだんに見えてくる。自然と関わりながら人間になるのだと思う。どうにもならないと言うことを受け入れることで、人間になるのだと思う。

 学校教育に作務を入れるべきだと考えている。身体で覚えるという必要がある。特に、水田の授業はいい。種を蒔き、自分が食べるものを育てる。採れたものを自ら調理してたべる。この自給の体験を通して、自然によって人間が教育されるはずだ。

 日本人がここまで劣化したにもかかわらず、世界中の都会に暮らす人々が、ここまで劣化したにもかかわらず、人間はより自然から離れようとしている。自然に戻る以外に人間に戻る方法はない。のぼたん農園で自給体験をしてみれば、そのことは誰にでも分かるはずだ。

 熱中症になるから、冷房を付けなさいと政府は忠告を流している。もう自然の中では人間は暮らせませんと言うことなのだろう。人間がひ弱になり、寿命は延びた。冷房がなければ暮らせないような年寄は、100年前であれば死んでいたのだ。

 虚弱な子供達だけになり。自力では生きられない老人が増加する。この弱まった社会を、自然とは切り離された、人間性の乏しい人達がかろうじて動かしている。当然感染症は今後も繰返し起こるだろうし、消毒社会になり、人間の免疫力は失われる。

 ロシアが侵略戦争を起こしている。力によって現状を変えられると考える人が、社会のリーダーの大半なのだ。中国は力で台湾を中国にしようとしている。日本は仮想敵国中匹敵匹敵する武力を持たなければならないとあがいている。

 このまま進めば世界は終わりになる。ただ一つ人間が生き延びる道は自然に帰ることだ。自然の摂理と言うことを考えれば、今人間が行っている自然から離れた暮らしが、やがて滅亡に繋がるに違いない、何の意味もない生き方であることが分かるはずだ。

 日本の高度成長を支えたのは、農村から都会に出た人達だった。政治家だって同じだ。子供の頃には百姓仕事を無理矢理やらされた人達が、人間として成長し、日本を支えたのだ。安倍さんの後の総理大臣の菅さんはそんな人かも知れないと思えた。

 ところが日本から農村が失われつつある。都会に出るような人間は、菅さんのように頑張って夜学に通うような人間は、農村社会にいたとしても自然から切り離された暮らしをしたのだろう。弱者に自助を語るような冷たい人間になっていた。苦労が悪い方に作用した自然から切り離された人だった。

 人間は自然に戻ることだ。難しいことではない。美しい海をボーと見ていられる人間にもどれば良い。自然という物を感じ取れる感性を育てることだ。田んぼで稲を育てられる人間になることだ。そうすれば自然がどれほどすさまじい物で、人間はそれを変えることなど出来ないと言う事が分かる。

 変えられないから、旨く従う道を探る方法が身につく。自然と折り合いを付けることしかないと言うことが分かる。どうしようもないことばかりだと言うことを知る。諦めると言うことを学ぶ。その究極が死ぬと言うことを認めると言うことになる。

 どうせ人間は死ぬのである。それを自分の中で明らかにして、受け入れる。そこから今日一日の暮らし方がみえてくる。ただ海を眺めていることの大切さが分かる。どれだけ深く感じて生きることが出来るかである。都会に暮らす人間には、この大切な物が育たない。

 たぶん自分で作った世界で一番美しい田んぼを見ている。この愉快は格別である。田んぼの向こうには草原が広がり、海に続いている。群青色の海には竹富島が平らにある。その先は空である。これが世界だと言うことが分かる。ここで自給自足で暮らすこと以上のことがないと感じられる。

 汗水流しながら、この自給体験をすれば、何が大切なのかが分かるはずだ。仲良く争わず、助け合って生きて行く以上のことは何もないことが分かる。自分が食べるものが作れれば、それでいいと言うことを身体が感じる。若い人達二是非ともそういう体験をして貰いたい。

 

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