人口減少すれば大丈夫だ
2025/04/24

日本は人口減少している。労働人口が減り、老人ばかりが増加することになっている。地方では消滅する自治体が現われている。年頭の今年の展望では不吉な予測が見受けられた。何度も書いていることだが、日本はもう少し人口が減少すれば、何とかやっていけるはずだ。老人はもう少し待てば居なくなる。
人口が減って困るのは資本主義だろう。資本主義では消費者が減ると利潤が減る。労働者が減る。国民総生産が減る。企業活動は回らなくなる。資本家は利潤が回ってこなくなる。こうした不安は当然のことだが、資本主義を止めれば解決することだ。いや止めることもない。もう資本主義は行き詰まり、終わりが近づいている。人口減少が問題なのではなく、資本主義の方が問題なのだ。
この先どうするのかと言うことなのだが、はっきりしているのはコンピューター革命のまっただ中と言うことと、資本主義が終わると同時に、コンピュター社会になると言うことである。経済の構造が様変わりするはずだ。拡大再生産の必要ない社会になるはずだ。
そうなった時には、対応の難しい人口の大きい国はむしろ行き詰まるはずだ。ただそれは今から20年は先の話になる。もう団塊の世代も居なくなって次の時代が始まっている。大きな社会変化の時代の中で、過去の社会条件をあれこれ基にして考えてみても、正しい予測が出来るはずが無い。
今のままの資本主義が続くとすれば、人口減少は困ることも確かにある。しかし、資本主義は終わらざるえないのだ。終わるときには確かに社会混乱は起こるだろうが、同時にコンピュターが社会を大きく変えることになるはずだ。
新しい経済の仕組みを考えるほか無くなる。たぶん、「ベーシック・インカム」のような制度が必要になるのだろう。この制度も資本主義のように、富裕層を作り出す制度が背景にあるのでは、旨く回らないはずだ。働くことに対して対価のない、新しい経済の時代が来なくてはならないのだろう。
日本が先進国から、遅れ始めた原因はコンピュター革命に乗り遅れたことが、一番響いている。人口減少よりも生産性の低下に原因がある。どこの国だって社会が変るのは大変なのだが、日本が特に旨く進まなかったことは、高度成長という成功体験があったためである。企業活動はうまく行った体験が災いしている。
それまでのやり方で何とかしようとした。これがダメだったのだ。今まで仕組みが完成していなかった国では、あらたにコンピューターAIを取り入れた社会が作りやすかったのだろう。急激にAIによる社会変革が出来た国が経済を活性化させることになる。新興国のや新しい企業の方がAIを取り入れやすかったのだろう。
日本の企業が遅れ始める。ナンバーカードのドタバタ劇が日本の後進性を象徴している。政府が国民を騙そうとしていると感じた人が多い為に、進まなかった。個人情報を政府がすべて把握すると言うことに対して、不愉快に感じる人が多かった。日本人の猜疑心の強い性格も影響している。
国民の資産、行動、家系、個人履歴、健康状態を政府が把握することは良くないことだと考えたわけだ。当然の正論である。自民党政府なら何をやるか分らない。ナンバーズカードは政府はやろうと思えば、国民一人一人を完全把握できる仕組みなのだ。しかし、政府が完全把握した方が、経済には良かったのだ。
公務員の採用時に、調べることが出来る。その部署の仕事に不都合な人間を間違って採用しないことになる。政治家も不都合な履歴があれば、立候補すら出来ない。企業が同様なことが出来るのであれば、資本主義的には合理的ではある。その仕事には不向きで、問題のある病気の人を採用しないで済む。中国などやっていそうである。
すべてが表沙汰になる社会は生きにくいだろうと、多くの人が感じたのだ。私は何でも書いてしまっている方だが、もちろん書きたくないこともある。碌な人生ではないのだ。自分が劣っていることなど、直視したくないのは当たり前だ。それを誰もが知っている社会は生きにくい。
本当はそんなことはないのだが、そういうつまらない社会になるだろうという不安を日本人は抱いたのだ。正しい考えが社会変革に災いしたのだ。社会に一つのピースとしてはめ込まれると言う不安である。しかし、完全に把握できれば脱税はなくなる。犯罪も減少する。医療費も半減する。政府が善人であるはずがないところが問題なのだろう。
日本はAIコンピュター革命に遅れたのだ。どうもこの遅れはだんだん取り返せると言うよりも、一反差が開くとますます遅れるという傾向があるようだ。そのために人口減少を困ることだという、先入観から抜け出せなくなってしまった。本当は人口が減少した方が良いとAIは予測して居るはずだ。
これからのAI時代において、人口減少は悪い話ではないはずだ。本格的なAI時代を迎えたら、多くの仕事がAIに置き換えられていく。つまり世の中全体で、人間がやらなければならない仕事が減っていく。これは一時散々言われた議論だが、いつの間にか消された考え方だ。
むしろ多くの人が仕事にありつけない社会が待っている。仕事がなければ生活費を稼ぐことができない。それでは、仕事がない人たちは生きていくことができない。最低限の生活を送れるようにするため、コンピュターロボット社会では、ベーシック・インカムが取り入れられる社会になる可能性がある。
最低限所得保障を政府が全国民を対象にして、決められた金額を定期的に支給する。現状の資本主義社会では到底無理なことなのだが、次の経済の仕組みの中では、考えなければ、解決できないことが起きてくるはずだ。人間を労働力から、人間としての本来の生き方をするものへとの転換。
今まで労働力の対価としての賃金はなくなる社会。好きなことを見付け、それに全力をつくす社会。AIコンピュター革命後の社会ではそれが可能になる。人間の評価を他者との比較で行わない社会。資本主義社会の中に居ると、その次の社会を想像できないかも知れない。
コンピュターやロボットが今人間が行っている労働の置き換え可能なものを広げて行く。農業分野は人間の労働で今成り立っているが、25年すれば、人間の労働に依存しているのでは、生産性の点で競争力を失っているはずだ。食料生産分野で人間の労働は、25年後には今の10分の一になっている。
それでも、肉体労働を中心にした自給農業をする人は居るはずだ。それがある人にとっては、やりたい好きなことだからである。それぞれが好きなことをして生きている社会が来る。その可能性を開くのが、コンピュター革命後の社会だ。
それは人間がAIコンピュター革命を上手く受け入れることが出来たときのことだ。様々な難関がある。人間の幸せとは何かが、それぞれに違うからだ。人間という多種多様なものを、コンピュターがコントロールできるわけがない。どこまで人間の本質に機械が関わるのか、試行錯誤して行くほかないのだろう。