あしたに生きている。

   



 生きていればあしたに続いて行く。あしたがあると言う意識が、今日をやり尽くすためには、大切だと思っている。あしたがあるから、今日だけではないからこそ、今日を精一杯生きる事が出来るのだと思う。今をひたすらに生きると言うことは、今だけのことではない。

 あしたには何かが出来るかも知れないと思えることは大切なことだ。目標を立てるためにはあしたがなければならない。目標を持つためにはあしたが必要である。あした成ればと思うと元気が出てくる。今日を十二分に生きると言うことは、あしたがあると言うことに支えられている。

 あしたがあると思うのは極楽とんぼだからだ。明日は保証はされていない。それでいいと思っている。実はあしたはないかも知れない。朝起きればあしたが始まるが、朝起きなければあしたはなかったことになる。毎晩死んで、毎朝生き返っているというのも、考えようである。

 あしたを思う気持ちは希望だ。何ものでもない自分が、あしたのある自分というものに可能性を感じるから、希望が湧いてくる。今日は明日に支えられて出来ている。今日だけではないと思えば、諦めないでも良い。あしたがあると思えるから、死ぬことを忘れていられる。

 今年は76歳になる。父が死んだ年だ。死ぬことはそう遠いいことではないのかもしれない。しかし、100歳まで生きることに決めているので、まだ25年あると考えている。それは妄想ではあるが、かまわないから、そう思い込むことにしている。そうすればあしたがあると思って生きていられる。

 絵を描いている。いつまで経っても先が見えない。自分の絵にならない。残念なことだが、能力が低いとしか思えない。しかし、能力など生きると言うことには関係がない。やることが満足なものでないとしても、自分のやれることはやりきりたい。それ以外に生きると言うことはない。

 ここで終わるわけには行かない。絵がここで終わりではあまりに情けない。絵を好きで始めた甲斐がない。良い絵とか評価される絵が描きたいとは思わないが、なるほどこれが自分の絵なのかというものは描きたいのだ。それがまだまだなのだ。だからあしたを思う。

 その人が現われている絵というものはある。中川一政氏の絵はそうだ。中川一政氏がどんな人か絵で分る。何度かお見かけしたことはある。話も聞かせていただいたこともある。その実在の中川一政氏と言うよりも、絵の中に存在する中川一政氏がいるのだ。

 絵の中の中川氏の実在感が、生々しく、激しく立ち現れている絵だ。こういう人が居て、こういう絵を描いたと示している。美術品とはまるで違う。部屋に飾っておけるようなものではない。お寺のお堂の中に納めて、時々拝みに行くような絵だ。

 私の絵はそれ程大それたものであるわけもないし、そうありたいと思っているわけでもない。ただの普通の人であるササムライズルの実像が表れて居れば良いと思うのだ。普通の人が立ち現れる絵を描くことが、普通の人には出来ないのか。という辺りが私の苦闘なのだ。

 田んぼをやっている。自給のための田んぼである。田んぼの技術を誰にでも出来るものに、したいものだと思っている。ここに書いてあるとおりにすれば、再現できる農業技術にまでしたいと思っている。普通の人に出来るイネ作り技術にしたいと考えている。

 所がこれもなかなか困難なことになる。できる限り分りやすい形で、自給のイネ作りの本をまとめたつもりだった。5年前小田原から石垣島に移住をした。小田原では仲間が田んぼを続けている。続けているが、私の居るときのようには、畝取りが出来なくなってきたのだ。

 気候が変化をした。暑い夏になった。新しい気候環境への対応が必要になっている。農業はいつも応用編である。大事なことは直接のマニュアルではなく、その基にある考え方である。その考え方も書いたつもりだが、それを読み取り応用することは、誰にでも出来るものではないようだ。

 夏の気温が高いならどうするか。品種を変える。水管理を変える。栽培時期を変える。気候の変化に合せた対応が必要になる。そのためにはイネと自然の摂理に基づかなくてはならない。そして、試行錯誤が必要になる。様々な実験栽培を行い、とことん観察をして、何が正しいことかを判断する観察力と論理的思考が必要になる。

 百姓のあしたはいつも未知の世界なのだ。初めての世界がそこにはある。それが自然というものなのだろう。こうだろうと決めつけて考えることは、思い込みになる。いつも未知の現象に向かい合う気持ちで、観察をし続ける必要がある。基本を知り、応用を続ける考え方が大切なのだろう。

 本当の百姓はあしたの百姓である。今日の百姓では良い百姓にはなれない。どう改善するか。どう対応するか。どう手入れをするか。あしたの成果を考えて手直しすることが百姓である。百姓の今日はいつもあしたを見ている。それが出来るのは収穫という回答があるからだ。農業は庭造りとは違う。

 絵には回答がない。ここが難しいところだ。絵はその人が生きると言うことを表現するものだ。生きると言うことには正解などな
い。だから絵には正解がない。その人が描いたというような絵は私の正解かも知れない。絵のように見えても、それは絵らしきものを、真似てなぞったものばかりだ。

 どうすれば自分の絵にたどり着けるのか、それだけのことになる。筆を執り自分から出てくるものに従うという方法で描いている。頭で描くのでは無く、腕に従い描くようにしている。日々の一枚で描いている。死ぬその日まで続けて行こうと決意している。

 それでたどり着けないとすれば、その力量がないものが私と言うことなのだろう。それは止むえない。全力で日々描ききってダメならば、そう思うほかない。先の事を思い煩うことよりも、その一日を全力で生きて、あしたを待つ以外にない。それが生きると言うこと。

 生きると言うことは悲しいことである。死が待っているのだ。それを悲しいと考えてもどうにもならない。辛いけれど死を受け入れるほかないのが、生きとし生けるものが死ぬと言うこと。もし永遠の命があるのならば、永遠に絵を描き続けたいと思う。それで自分に至れば、自分の絵をひたすら描き続けたい。

 しかし死ぬのである。あしたは来なくなる。だからこそあしたがある今日は精一杯絵を描きたいと思う。それ以外にやれることはない。幸、どこが悪いと言うことはない。温かい石垣島ののぼたん農園で毎日絵が描けるのだ。これほどの今の幸せはないと考えている。

 自給の田んぼがやれる。水牛が飼える。熱帯果樹園がやれる。コーヒー栽培ができる。サトウキビが栽培できる。溜め池で熱帯睡蓮が栽培できる。そして、自分の絵が描けるこれ以上のことはない。今日の一日を大切に思い暮らして行くつもりだ。


 

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