10年前に緑内障が見つかった。

   



 森の里病院 人間ドック体験記 2015-02-23 とこのブログにある。10年前に65歳になった時に、一度は人間ドックというものに行ってみようと考えてあれこれ探して出かけたわけだ。そのときに緑内障が見つかった。他には病気は見つかることなく、検査の数値は健康であるというのが結果だった。

 両親に深く感謝するほかない。健康で75歳まで生きることの出来る身体に生んでくれた。そして、少し問題のある子供を、なんとかかんとか成人まで面倒を見てくれた。まだ食糧不足の時代に苦労して育ててくれたのだ。それこそ自給自足生活を実践して戦後の時代を乗り越えた。

 相模原の原野での開墾生活をした。偶然隣り合わせで、黒川さんと笹村さんが購入して、開墾生活を始めたのだ。ともに苦労して戦後の食糧難を一緒に乗り越えることになった。開墾地でのお隣の縁で、父と母は結婚することになった。その場所は米軍に接収されて、今は米軍基地である。

 腸の内視鏡を見た森の里の若い医師の先生が、これほどきれいな腸は珍しいと言われてうれしくなった。お医者さんにはいつも虚弱体質だ。療養が必要だと言われてきていた。この年になって初めて身体のことで褒められた。長年の食生活と腸活が評価されたようでうれしかった。

 あのときの内視鏡はかなりつらかった。看護婦さんが背中をさすってくれてありがたかった。もう2度と内視鏡の検査はやりたくない。10年前よりは今の法が、がん検診も精度が上がったはずだ。何も直接見ないでも発見できる方法があるらしい。

 あのときMRIやCTの検査も行った。そのとき検査の担当者が、こういう検査は継続して受けるような検査ではない。次は間を空けて受けてた方がいいと思うと、親切に言ってくれた。確かにそうだ。磁場も被爆もあまりいいものではなさそうだ。その後は受けていない。

 あれから10年がたった。時間は過ぎてゆく。身体は快調である。まさか石垣島で暮らしているなど考えもしなかった。健康に気遣う老いてゆく10年間だったと思うが、人間は変わると言うことだ。75歳と言うことも一つの過程であり、今の身体をいたわるほかない。

 朝はブログを書く。動禅体操を行う。健康食を食べる。毎日田んぼにゆく。そして絵を描く。この暮らしは、小田原にいても、石垣に来ても変わっていない。あと何年この暮らしを続けることが出来るかは、身体の維持がどこまで出来るかである。せいぜい25年持てばいい。

 緑内障はずっと治療を続けている。小田原の眼科の病院はかなり評判のところで、著名人が目の施術を沢山受けている名医の眼科病院。日本全国から患者が集まるような所だったのだが、あそこで見ていただいたのは失敗だったと思う。あのときもう少し、進行を遅らせる努力の指導がほしかった。緑内障は治らないのだから受け入れろ。の一点張りだった。

 今の石垣の病院の方が、設備もいいし、先生も確かである。今の状態を少しでも長く保つためにはどうすればいいか、最善を提案してくれている。先生は朝7時から診察で働きづめである。感謝である。患者はあふれている。離島でも老人が増え、眼の病気は増えて続けている。

 緑内障は少し進んでいるのだが、やっと止まってきた感じもする。10年たって、この程度ならばまずまずの状態かと思う。あと視力が25年持てば十分である。その10年前以来、一度も健康診断も人間ドックも受けていない。病気を見つけたくないという気持ちで特定健診も行かなかった。知らぬが仏でいたい。

 内観法で毎日検診しているが、どこも問題なしの良好である。毎年検診を受けなさいと言う行政の指示が届くが、ゆく気になれない。ゆくならばまた森の里病院のような、どこかのんびり出来る地方の人間ドック病院でも探したいものだと思う。時々ネットで探すのだが、まだ適当なところに当たらない。

 今度は鴨川の亀田総合病院 の人間ドックに見てもらえばと少し思う。森の里の系列病院である。設備は良いらしい。この病院はふるさと納税でも見てもらえる制度があるらしい。鴨川ということで懐かしい。三浦さんのお父さんが鴨川の別荘地で暮らしていた。素晴らしい方だった。

 房総半島というと、高校生の時のことを思い出す。鴨川のお隣の勝浦に鵜原理想郷という不思議な名前の場所がある。理想郷に隣接する入り江の浜辺を購入する話があったのだ。購入して開墾生活をしようかと考えたのだ。子供の頃に山梨の山村で育って、自給自足での暮らしに憧れがあった。

 なぜか父親は自給自足の暮らしを認めてくれて、購入してもいいと言うことになった。なぜ実行できなかったかと言えば、私が自給生活に入る決断が出来なかったのだ。よくわからない混迷の中にいた。大学闘争の時代でもあった。ひたすら陸上部の練習をしていた。

 大学には行かないで、自給生活に入るのもいいと父は考えてくれた。しかし、踏み切れなかった。その後30代後半に開墾生活に入ることになったが、あのとき鴨川に行ったならば、自給生活はどうなっていたのだろうかと思う。全く違う人生を生きていたに違いない。

 75歳まで生きてきて、今になってわかる、人生には分岐点がある。その分岐点はいつも暮らす場が変わるときだ。大学に行くと言うことよりも、金沢で暮らしたと言うことが大きかった。ひたすら絵を描いた。その結果フランスに行き、不健康に絵を描き続けた。さらに絵描きになるために東京で暮らしもがき苦しんだ。身体を壊し結核だと言われた。

 心機一転の思いで、山北へ行き自給自足暮らしをした。開墾地から三原山の噴火が見えた。身体だけで行う自給を達成した。一人の自給からみんなの自給に考えが広がる。小田原に移り「あしがら農の会」をはじめる。そして石垣島に今いる。長く農に関わる生活をしたことになる。

 すべて健康な身体があったから出来たことだ。虚弱体質とお医者さんから言われた子供が、開墾生活を成し遂げる。強健な肉体を作ることが出来た。そして75歳の今でもなんとか、のぼたん農園の実現に向けて身体を使うことが出来ている。

 後はこの身体が、どこまで持つかである。緑内障がこれ以上進まないこと。農作業のできる身体がどこまで続くか。のぼたん農園の完成には、あと5年が最低必要である。5年では、石垣島の自給農業技術の探求は難しいかもしれない。身体を1年でも長く維持して、やり遂げなければならない。

 80歳を超えても身体が使えるならば幸いなことだ。そんな先のことは今は考えても仕方がないが、そろそろ人間ドックにゆくことを考えて見た方がいいだろう。10年身体を持たすことを考えればそういうことだろう。そうか亀田病院か。来年にするかな。

 
 

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