下水道陥没事故について思うこと

埼玉県の八潮市の交差点で、先月28日大きな下水道陥没が起きた。たまたま通りかかったトラックが巻き込まれるつらい事故になった。三週間が経過したが、まだ運転手は見つかっていない。なぜ、最初の段階で自衛隊に救援を頼まなかったのかと思う。後手後手に回っているようにしか見えない。
あるいは、こうした災害対応能力自体が衰退し、機能しなくなっているのだろうか。国の衰えを感じざる得ない。そもそも下水道のこの陥没は日本の公共事業のずさんさが原因なのであろう。下水道の陥没はこれほど大きなものではないが、全国で毎日のごとく起きていると報道されている。
下水道周辺の空洞の調査は2mぐらいの深度までだそうだ。この下水道は10mという深さだから管の腐食から破損が起き、水漏れで空洞が出来ているなど見つける方法がないと言うことだ。何という馬鹿げたことか。ものを作れば必ずその後の点検整備が必要なのだ。
点検が出来ないようなものを作ってはならないだろう。下水道事業には様々な問題がある。日本の高度成長と言われた時代の闇である。からら酢将来起こるだろう、点検改修のことなど考えもせずに突き進んだ。そして様々な負の遺産を残した。その付けが今の停滞した時代に噴出している。
高度成長期に、下水道を作るとなれば、地方議会は何でも反対と言われた共産党まで賛成して、全会一致で不要な下水道を作り続けたのだ。いよいよ壊れる耐用年数50年が過ぎて見ると、何という無駄なものを作ったのかと思う。公共事業ありきのインフラ整備の無駄である。
現代の建築物は、作ればその日から老朽化が始まる。安普請の場当たり的なものしか作られていない。ピラミッドや万里の長城のような、2千年以上も維持するような建築物は、現代では作らない。せいぜい50年なのだ。原発だけは老朽化しても、耐用年数の方を見直して使うと言うことらしいが。
その原発が地震の津波で崩壊したのだ。壊れないものなどないわけだが、高度成長期の押っつけ仕事では、ともかく作ればよしというものが多かった。下水道のように地中に埋めてしまうものとなれば、見ないことにして蓋をしてきたわけだ。
1958年に下水道法が出来た。あの頃の日本は高度成長に伴う環境汚染が深刻化していった。水俣病や四日市ぜんそく、川崎病と、環境汚染をやむ得ないものとしながら、工場からは様々な環境汚染物質が、処理不十分なまま垂れ流し続けられた。
河川は生き物が住めないほど汚染され、海は魚を食べることも出来ないシノ海になった。これではダメだと言うことで、下水道の整備が一気に進んでゆき、都市部では1975年の40年前には50%位の下水道が整備されている。この頃までに作られた半分の下水道が耐用年数が過ぎ、老朽化している。
1970年前後には公害問題が深刻化し「公害国会」と呼ばれるようなことになる。下水道による環境改善が重視され、下水道法も改正される。これにより、下水道はただの排水設備から、公衆衛生や環境保護のための重要なインフラへと位置付けが変わることになる。
下水道整備事業は絶対善となり、どこの自治体も公共事業の筆頭にあげられ、下水道整備計画が立てられることになる。今になってみれば、不必要な場所にまで無駄なお金が投じられる結果となっている。そして老朽化して、その維持管理が手に余る事態になった。
一方で下水道で集めた水が十分に浄化されないまま河川に放流され、下流の街が汚れたままの水を取水し、感染症が蔓延すると言うような管理の不十分な場所も出てきている。しかも下水道処理施設では、その汚泥の利用と言うことで、農地に土壌改良資材として入れようと言うことになる。汚染の循環計画である。
2023年3月末時点で、全国の下水道管の平均築年数は47.6年。既存の下水道管のうち約1.4万キロメートルが法定耐用年数を超えており、実際、老朽化により、管の破損や漏れが発生し、それが原因で道路が陥没する事故が起きている。毎日どこかで陥没事故が起きている状況。
しかし、下水道の老朽化対策工事は多額の費用が必要であり、対応できる財政状況ではない。必要以上に作りすぎてしまった所もある。人口減少による消滅の危機にある自治体では、当然のこと下水道の改修にはで手が回らない状況である。下水道費用が水道代に上乗せされ、生活の基本となる水道代の値上げが起きている。
そこで行政だけの力では効率的な下水道の運営が出来ないという理由で、広域化して民間団体が上下水道事業を行う自治体も増えてきている。水という生活の一番の基本となるものを、民間企業に委託していいとは思えない。民間だから安く、安全に運営が出来るという考え自体がおかしい。
最近の気候の劇症化により、下水道があふれ出て水害
に結びつく事態も頻発している。マンホールの蓋が高く跳ね上がり、水柱が立つようなニュース映像が時々現われる。都市の見えない地下で起きていることを考えると、今は新しい公共事業に取りかかるどころではない。
に結びつく事態も頻発している。マンホールの蓋が高く跳ね上がり、水柱が立つようなニュース映像が時々現われる。都市の見えない地下で起きていることを考えると、今は新しい公共事業に取りかかるどころではない。
大阪万国博など馬鹿馬鹿しいにもほどがある。大阪市の維新の会はあんなにお金をかけて賭博場を作っている場合ではない。リニアモーターカーなどなくても生活には何も困らない。今からでも止めた方がまだましである。こうした最悪の公共事業が、老朽化した橋や道路や下水道に目をつぶり、進められている。
それは石垣島でも同じである。市長の役割は公共事業をどれだけ島に呼び込めるかが、その力量のように思われている。例えば、飛行場の滑走路の延長や、大型クルーズ船の寄港できる港湾整備など、政府から見れば、高度自衛隊の誘致のための準備のようなものである。
今は新しい公共事業など手がけず、今あるものをどれだけ大切に使うかを考えるべきだ。直せるものを直し直し使うのが、島の文化だと思う。日本は高度成長を深く反省しなければならない。成長神話から抜けだし、日本列島で平安に暮らす方法を模索しなければならない。