日本に田んぼはなくなる。

   

 
 嵩田排水路 奥の山が石垣島で一番高い於茂登岳である。この上流部に名蔵ダムがある。石垣島で神聖とされる白水神社もある。正月には必ずお水取りに行くことにしている。その時寒くないので不思議な感覚である。

 名蔵ダムは過去の記録的な干ばつで稲の収穫が出来なかったことで、造られたダムである。名蔵ダムが出来て、もう石垣島で水の心配はなくなったそうだ。水は導水管で、崎枝にも運ばれている。今度川平まで導水管が延ばされる。

 日本に稲作農業はなくなるかもしれない。あと30年ぐらい先のことだろうが。よほどのことでない限り。このままではたんぼは無くなるはずである。(昨日の尻切れ文章の続きである。)農業を取り巻く状況を考えれば考えるほど、稲作農業はなくなるように思えてくる。

 アベノミックスの次は総括の無いまま、スカノミックスでは、稲作農業が産業として余りに不利なのだから、無くなるほかないだろう。農家出身の総理大臣なのだから、稲作農家の実情は知っているはずだ。何とか田んぼを残してくれないものだろうか。

 企業が稲作農業を担うと言うことはあり得ない。企業であれば、儲からないことはやらない。株主の反発になる。企業が農業をやれば日本の農業は国際競争力が生まれるという竹中平蔵氏のアベノミクス農業論は間違えである。間違えの理由を書く。

 もし、企業が稲作農業を本格的にやるとすれば、労働力の安い、農地負担も安い、気候も水利も稲作向きの国に進出して、そこで大農場をやるだろう。それがプランテーション農業である。輸出を目的にした農業である。それがアベノミクスの主張するところの国際競争力のある農業に成るはずだ。

 抗して新自由主義経済は、国という枠組みを超えて行くものである。一国主義を主張することは実は国家という枠組みを変えて行くことになるのだと思う。経済競争に勝つために移民を行わざる得ないと言うことも同じことなのだろう。

 ヨーロッパのプランテーション農業が経済後進国を食料自給の出来ない国にした。胡椒を作り、綿花を作り、ゴムを作り、換金作物に偏った農業に主食の農地が奪われることになる。本来の食料生産地が失われた。奴隷的な労働者として働らかされるだけの国になった。日本もプランテーション農業をやれというのがアベノミクスである。

 国際競争力のある農業生産物を作り、輸出しろというのだ。その労働力は労賃をの安い外国人労働者を使えば良いというものだ。換金作物だけが成り立つ農業にしろという方針である。アベ氏の主張した瑞穂の国の稲作はどこに行くというのであろうか。アベ氏自身はそんな本を誰が書いたのかと思っていることだろう。

 経済性のないものは無くなる。稲作をただ自由競争に任せれば、一部の企業的大規模稲作以外は成り立たたない。企業がやれる稲作は一定残るだろうが、大半の条件不利地域の稲作は無くなる。それは地方の消滅と言うことでもある。余りに自明の理であるから、これ以上の説明はいらないだろう。

 問題は稲作を残すべきかどうかである。主食作物は自給できなければ国家とは言えない。国の安全保障が無ければ国民は安心して生活が出来ない。明日の食べ物を確保するのが最低限の国の役割である。しかし、経済優先の政府は食糧自給率を高めることができないでいる。残した方が良いとは考えても、もう経済が沈没状態で無理というのが実際の所だろう。

 農業は決して経済のためだけにあるのではない。芸術や文化は経済的合理性が無いから、止めた方が良いというのではないのは当然である。芸術や文化の伝統こそが、その文化圏に暮らす人の豊かさに繋がるものだ。人はパンのみに生きるにあらず。稲作農業はただの生産方法では無い。日本人の文化を培ってきた、源泉とも言えるものだ。伝統的稲作農業を捨てては成らないのだ。

 国際競争力、大規模農業、企業経営となれば、条件の不利農地は放棄されて行く。耕作放棄地はさらに増えている。農業者の老齢化は進み、農業者人口の減少も歯止めが無い。こうして、条件不利で放棄されて行く農地は、小さな自給農業で維持して行く以外にない。

 農地がただ放棄されてしまうと、時間が経てば自然に戻るというようなことはない。その結果はどこの地方に行っても無残な耕作放棄地の実際を見れば分かる。耕作放棄地が自給農業で維持されることは環境保全にも繋がる。特に山間地域の水田の維持は地域の防災や、環境保全にも役立つ。法律的な制限を加えるような理由は全くない。むしろ奨励されるべきことだろう。

 自給農業は難しいものでは無い。日本人が何千年もやってきた伝統農業を行えば良いのだ。大きな機械は不要である。化学肥料や農薬も不要である。自然に沿って行えば、一日一時間の労働でひとりの自給は可能なのだ。私の生きた一番の誇りは、そのことを我が身で証明できたことである。そして今も仲間と共に続けていることだ。

 こうしたやり方でやる自給農業はどうせ遊びだろうと思われるかもしれないが、そうではない。田んぼでは畝取りをしている。稲作農家の目標でもある、一反当たり10俵、600キロのお米を取るという畝取りを達成している。専業稲作農家よりも多収なのだ。昨年は天候不順であった。私も離れた。困難ではあったのだが、それでも9.5俵を実現している。

 経済性から言えば、参加者に120キロのお米を昨年は分けたのであるが、会費は9000円であった。随分安いお米である。労賃はただであるから、経済合理性があるわけでは無いが、田んぼに行く方がデズニーランドより楽しいという人もいるのだ。

 あしがら農の会の自給農業方式以外には、日本の中山間地の水田を維持する方法は無いと思う。先ずはひとりで始める以外にない。ひとりで出来るようになったならば、仲間を受け入れることだ。次のひとりに繋がる。そうしてつなげて行く以外に日本の伝統的稲作が残る道はない。

 政府は目を向けないどころか、そうした自給農業の芽を摘んでいる。邪魔者扱いしているのが現状である。農地法の壁がある。法律には法律の出来たときの必要性はあったのだろうが、今その農地が放棄されているときに、法律を変えなければならないのは当然のことではないだろうか。

 国というものは食糧の自給ができると言うことが第一義である。人間が生きると言うことは、食糧を自給できると言うことからである。そしてその食糧を作るという行為が、その国の文化を育むものである。日々の暮らしから文化が生まれてくる国が幸せな国だ。日本もかつてはそうした幸せの国であったことがある。

 あしがら農の会がどうして、旨く回っているかを書いてみたい。月曜日に掲載する。

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