アトリエカーを新聞に載せて貰った。

   

 アトリエカーのことを八重山毎日新聞が取り上げてくれた。他に代えがたいほど有り難いことだ。これで描いている周辺の方に心配をかけないですむのではないかとおもう。いつの日か石垣島の水彩画を完成するつもりだ。その時に石垣島の皆さんに喜んでもらえればと思っている。

 「アトリエは軽トラの荷台」なんとも良い見出しである。軽トラが大好きな絵描きとしては、言うことが無いほど完璧な一言である。これこそが理想だった。水彩画家と描いてくれたのも嬉しい。八重山毎日新聞の記者の方はとても的確である。本当にレベルの高い新聞である。

 視野は世界、視点は地域。これが八重山毎日新聞の姿勢である。芸術はナショナルであればあるほど、インターナショナルであると考えている。石垣島の繪をどこまでも掘り下げ、確立することが世界に伝わる絵になると考えている。

 今見えているものをよくよく見ることしか、自分の世界観を確立することは出来ない。自分というものをどこまでも掘り下げ、確立することが人間のための芸術にも成る。そう信じて自分の眼が観ている世界を描くものが「私絵画」である。

 石垣島ほど水彩画を描くために魅力的な場所は無いと思う。珊瑚礁の海。紺碧の海に浮ぶ島々。空の青さと白い複雑な雲の行き来。そして何より、田んぼを中心とした農耕地の魅力がすばらしい。起伏のある複雑な地形の中に旨く溶け込むような農地が、人間が作った痕跡があり実にいい。

 石垣島の農地は自然を破壊するような農地では無い。自然を生かした農地がまだまだある。人間が自然と折り合いを付けている姿だ。人間が作り出した農耕地という自然、これほど美しいものはない。自然の限界を超えて人間は生きてはいけないと言うことなのだろう。石垣島の農地が失われる時代が来るとすれば、それはもう人間が生きて行けない世界になったと言うことだと思う。

 今日も石垣島のどこかに描きに行く。風景は不思議なもので、100メートルほど離れただけで、新しい写生地が見つかることがある。振り返っただけで、新しい写生地に気づくこともある。それだけ石垣島は変化に富んでいて、多様なのだと思う。

 いま、20カ所ほどアトリエカーを止めて、絵を描ける場所がある。1,バンナ岳北斜面に3カ所。2,名蔵地域に3カ所。3,崎枝地域に4カ所。4,ふさき地域に4カ所。5,宮良川に3カ所。6,白保・大里地域に3カ所。である。

 北部地域にはまだ描いていない場所がいくつもある。今は新しい場所を描くと言うより、今描いている場所を突き詰めたいと思う。この20カ所がそれなりに納得の行く絵になったときには、アトリエ展をやりたいと思う。
 石垣島の地図に、20カ所の場所を印して表示したい。その順番に絵を20点展示したい。いつになるか分からないが目標である。そう思うとまだ一カ所も納得がいったという絵になってはいない。この場所はこれでいいという所まで描きたいものだ。
 それが出来れば、石垣島の家は笹村出水彩画美術館とすることが出来る。どのみち私が生きることが出来るのは最長で30年である。普通であれば20年ほどだろう。その後に残るこの家は水彩画美術館にできれば最善だろう。

 あと、10年描けば少しは進めるかもしれない。20年描ければかなりの所まで行けるだろう。そう思って粘り強くやりたいと思う。石垣島のためになるのかどうかは分からないが、やれるだけはやってみたいと思う。

 私の絵は石垣島らしいと言うわけには行かないから、石垣島の絵はがきには成りようもないが。ゴッホと言えばアルル。セザンヌと言えばエクス。ゴーギャンと言えばタヒチ。そんな風に石垣島に根ざして、世界に向けて私絵画を描きたい。

 奄美大島で日本画を描いた田中一村という絵描きがいる。やはり移住をしてきて絵を描いた。しかし、ああいう繪は嫌だ。奄美大島らしい風物画を描いているが、商品絵画ならあれでいいのだろうが、芸術としての絵画だとは思えない。ゴッホも、セザンヌも、ゴーギャンも、芸術としての絵画であって、商品絵画では無い。

 アトリエカーは今のところ、運転席では無い側の窓からだけ描いている。どちらに向けてでも、車が止められる場所では運転席では無い側の窓の方が描きやすい。理由は分からないが、それで少しアトリエ内の家具の配置を換えた。基本進行方向に向かって座るようにした。これはアトリエカーの設計において考えておく必要があるのだろう。

 アトリエカーでは、民芸家具を置くつもりで考えていた。その感じが絵を描きやすいと考えていたのだ。冷凍車の箱の中で絵を描くという感じでは無理だと考えてのことだ。それは間違っていなかったのだが、主に進行方向に向かって座るとすれば、窓なども考える必要があったのかもしれない。

 座椅子タイプのゲームチェアーはやはり正解だった。実に描きやすい。疲れない。車が傾斜があったときには椅子の下に板を挟んで均平を取るようにしている。画面の方も均平を取る。箱が斜めであっても、地球に対して平らで無いと描きにくいものだ。

 床の厚手のネパールの絨毯は具合がよい。雰囲気も柔らかいし。居心地が良い。少し周囲に隙間が出来ているが、むしろ大きすぎるものにして立ち上げた方が良かったかもしれない。どうしても調度の大きさの絨毯は無い。水をこぼしたこともあるが、余り問題は無かったようだ。

 新聞に記事が出て、石垣で養鶏をやられている方から、連絡があった。私の養鶏の本が役立っていると思うと嬉しい。もうひとり私の本で養鶏をやっている方が石垣島にはいる。イネ作りの本も山田書店に置かれていたので、石垣島のどなたかの役に立っている可能性がある。

 実用書はいいものだ。どこかで役立つ。私の絵もどこかで役立つものであれば良いと思うが、これが残念ながら実用では無い。無用の長物である。不要不急のものだ。そう無くても良いものだからこそ、芸術は大切なのだと思う。無ければそれで済むのだが、あることで誰かの心が豊かになれるのかもしれない。

 石垣島で美という世界観を掘り起こしている。未だかつて無い、美を掘り起こしている。見つかるかどうかも分からない何かを発掘している。美の鉱脈は確かに石垣島にはある。見つけられるかどうかだ。石垣島のフォーティナイナーズである。

 

 - 水彩画