書に書く良い文字について

   



 昨日は誕生日だったので、七一歳笹村出とでも書こうかなと思った。書は改めて書くというのではなかなか書かないものだ。それでいつでも書けるように硯と筆は座り机に出してある。墨をゆっくりと摺り、気持ちが整ったらば書く。それだけのことだが、何か居合い切りのような気分になる。

 書には手直しのような物はない。そこが書の魅力だろう。その時の切り取りがすべてだ。絵のように悩まなくていい。どんな出来上がりであれ、字を書いたときが完成である。後は署名と印鑑の場所ぐらいだ。行為そのものがきっぱりとしていて、なんとも爽快である。

 書はうまい下手は全くない。その人の字が見たいのであって、上手な字が見たいのであれば、代書屋さんの字で充分だろう。人柄も知らない人の字は正直どうでも良い。中川一政氏という人物がすばらしいから、その人のよすがとなる字を見たいのである。

 人によっては乃木大将の字が良いとか。西郷隆盛の書を持っているとか。あるいは野口英世の字は別格だとか。今なら藤井聡太の書が欲しいとか。別段書の専門家の書を見たいわけではない。その書いた人の精神を感じることが出来るのが書だ。だから、書道家などという存在は本来あり得ない芸術が書だ。

 書く文字を選ぶところが先ずは面白い。普通は立派な言葉を書くことになっているようだが、天邪鬼としてはそういうことはしたくもない。もっともらしい書は大嫌いだ。言葉として意味を持たない物の方が書を書くときの気分である。

 写真のように、〇△?と言うような書もある。不立文字と言うことなのだろう。言葉には出来ない悟りの世界を表しているというような理屈の説明がついているのだろう。そういうことより、坊主の突っ張った気分と私は読む。

 石垣島に来てからは石敢當という字も書くようになった。街角に良くあるので、ついつい書く。面白い字である。中国のおまじないのような言葉らしい。何でも良いが意味が無い文字が好きだ。おまじないで意味が無いので書いている。

 申し訳ないが、一番嫌いなのが、相田みつおさんのような思いたっぷりの文句だ。字は嫌いと言うほどでもないが、あの善人嫌みのたっぷりの感じが良くもヌケヌケト、と感じてしまう。天邪鬼の性だとは分かっているが、書には好き嫌いしかないのだから、許して貰う。

 南海晴 北山雨という字は山北にいたときにはよく書いた。山小屋の前にその日の天気予報を掲げる木札のイメージである。黒板にチョークでかく書である。山小屋の親父さんがこわばった手で、力強く一日晴れと書いた感じだ。

 実際には紙に墨だが、書はそんな気持ちで書きたいと言うことで。字の形にはそもそもの力があるから、書かないより書いたことで別物に変わるのだ。書いたことで起こる魔力のような物が字にはある。

 正月になると書くのは立春大吉と決めている。おめでたいと言うことは良い。書くことでおめでたくなるのだ。禅寺では正月に貼ることになっている。生まれた向昌院は極寒の場所でこの寒い日に、立春大吉とはどういうことかと子供心に思った記憶がある。

 新年にもう一つ新しく掲げたのが、鎮防火燭である。火の用心というわけだ。こう言う実用の文字には良さがある。母が亡くなったときに、弟である叔父さんが、何故か俗名を書いた位牌と、鎮防火燭と書いたお札を持ってきてくれた。おじさんとしては沢山書いていて、得意な文字だったのだろうか。

 どうも笹村の家にある、邪鬼のような物を追い払いたいと思ったのではないかと思っている。おじさんの中にある死んだ姉に対する実に様々な思いが、鎮防火燭の中にあふれ出ていて、これでこの家は火事にはなりませんねとつい、心にもないつまらないことを口にしてしまった。そのおじさんもとうに亡くなった。

 お寺にまつわる言葉というのは大抵は抹香臭いので書く気にはなれないのだが。脚下照顧、言語道断、不可思議、自業自得、ぐらいならば書いてもいいかと思う。脚下照顧とお寺の入口には書いてあるものだ。この言葉はおまえは何者だ。と尋ねてきた人に問うていると受け止めている。

 相撲取りが昇進するときに言う言葉も書くと強そうで面白い、若乃花「一意専心」琴奨菊「万理一空」貴乃花「不撓不屈」武双山「正々堂々」白鵬「全身全霊」琴光喜「力戦奮闘」若乃花 「堅忍不抜」双羽黒「心技体」

 百姓のつもりだから、種袋とか、保存というような字もよく書く。これは百姓が実用のために記したような様子が好きだからだ。醤油絞り袋とか、小豆保存袋というのもいい。米保存袋はもちろん書く。こう言う文字は柿渋で染めた布に描くと古びていいものだ。農の会というのも看板として良く書いた。

 自家採種。有機農業。不耕起。堆肥場。一反百姓。こう言う農にまつわる言葉を書くのは良い。日月星という文字も好きだ。宇宙という意味に呼んでいる。大雄山最乗寺の参道にこの文字が石に刻まれている。江戸の遊女が寄進したと伝えられている。月星日となるとこれはウグイスの声という意味らしい。
 
 普通。当たり前。当然。こう言う文字も悪くないと思っている。水土人天というのも好きだ。これを見た石垣の人が、石垣には土人が居るという意味かと怒られた。全くそんなわけではないのだが、機動隊員が、デモに押しかける沖縄の人を「この土人」と罵倒したことが頭に残っていたのだろう。

 できるだけ風流でない方が好きだ。激突とか、突破と言うような言葉の書が、須田克太氏にはある。須田氏の書は描き方もすごい。まず真っ黒に塗った紙に白で字を浮かび上がらせて行く書がある。これも実に素晴らしいものだ。もちろん須田克太氏の生き様そのままだ。

 中川一政氏の書はすばらしい中でも最高の物だと思う。特に最晩年の物はすごい迫力である。その書の中に、自分の中川一政という文字をまず鉛筆で書いてから、中川一政としたためたものがあった。本当に自由だ。その鉛筆の下書きをまるで外して書いている。

 家に見えた人が、壁に貼り付けてある文字を見て、どういう意味なのか。どういう意味なのかとひつように聞くのだ。意味は別に無いというように説明しても、ごまかしているというか、意味が分からないと思って、軽く見ているのだろうと言うことで少し怒りだしてしまった。本当にただ字を書くのが好きなのだ。落書きである。

 あえて説明をすれば意味のある字が書きたくないのだ。文字を選ぶ理由はあくまで見た目である。見た目の良い文字を選んでいる。

「黒漆崑崙夜裡走」「茶に逢うては茶を喫し、飯に逢うては飯を喫す」「只管打坐」「平常心是道」「行雲流水」「本来無一物」 「非思量」今度はこう言う立派な言葉を書いてみるか。身程不知と言うことになるか。

 - 水彩画