コロナウイルスで見えた生活力

   


 石垣島ではよく見る草である。花はこの通りそれなりにきれいなのだが、この後とても痛い種を付ける。このぐらいで刈ってしまわないと大変なことになると思う。綺麗な花には後が怖いものが多いと言われている良い事例だ。

 WHOはコロナウイルスで判断を間違った。一番は中国武漢での最初感染拡大を甘く見たことだろう。マスクは効果がないと発言したのもどういう意味かおかしかった。WHOが科学的な判断よりも、何か他のことに動かされる。そのために信頼を失い、その後のコロナの世界への拡散を抑える力を発揮できなかった。

 未知のウイルスは後になればその性質は見えてくるが、当初はあらゆる可能性がある。科学者として曖昧なものに対して徹底した検証をしないものを、判断をしてよいのかという事がある。日本の感染症対策委員会が議事録を残すと自由な議論が出来なかったという事もそこにあるのだろう。分からないという事も、無責任であるし、化学的な根拠のない予測を安易に発言が出来ないという事があるのだろう。

 日本の自粛解除は、政治的判断なので、感染症対策委員会が廃止されたと言うことが、今になると分かる。科学的見解は政治としては、困ると言うことなのだろう。科学者の悪い政治利用の典型例である。アベ政権に関係する人にロクナコトガナイ。

 しかし、新型ウイルスの恐ろしいほどの拡散を見ると、科学的な絶対ではなくとも、従来の科学的なウイルス判断に基づく、80%ぐらいの科学的予測を出すべきだと思う。科学者の多くが、素晴らしい見解や判断を今になって述べているのは、たしかに大いに参考になる。それならなぜ、あと3カ月早くそのことを公にしなかったのかと言いたい。

 例えば、コロナウイルスは空気感染をするのかどうかという事がある。これは科学的には今でも結論が出ていない議論だ。しかし、密室において感染者がいれば、感染するという事ははっきりとしている。疑う者は素人ならいない。しかし、これが空気感染なのか、飛沫感染なのかが、もう一つ明確ではないらしい。それがいまごろになって、WHOは空気感染を言いだした。あまりにも遅すぎる。同じ空気感染でもSARSとコロナでは違うというのは当たり前だ。

 データーが集まる中で、どうも空気感染すると言ってもいいという結論に近づいているらしい。ところがWHOではなかなか認めなかった。だから、マスクは無駄だとWHOは発言をして、世界中を混乱させた。マスクの布をウイルスはすり抜けるという事と、無駄だという事とは意味が違うのだ。WHOは接触感染を中心だと考えて、手洗いを重視していたのだ。

 飛沫感染であれ、空気感染であれ、その境は現実社会ではない。現実社会は実験室ではないから、様々な空間の状況がある。要するに閉じた室内は危険という事ははっきりしていればいいのだ。特にクラスターの原因になるような人が同じ室内にいれば、かなりの感染力で感染してゆくようだ。

 クラスターを起こす人というのがどういう人なのかはわからないが、そういう人がいることも確かだ。唾をやたら飛ばす人なのか、やたら他人に障る人なのか、手に唾をする人なのか、咳から出る飛沫が小さい人なのか、そういうことは分からないが、ウイルスが違う訳ではないようだ。

 科学として、感染を実証実験するとなると、患者のいる病室の空気を採取して、それを培養をしてウイルスが取れるかどうかという事になるらしいが、今のところそんなことは起きていない。それは病室という換気の良い、湿度も高くない環境では飛沫が浮遊している時間が短いという事なのだろう。

 現実の社会ではそんな安全性の高い密室空間は少ない。地下のナイトクラブにそれほどの換気扇があることはまずない。地下のじめーとした空間に飛沫の浮遊が長く続き、それを吸い込んで感染することは、科学とは言えないが、素人考えではあると断定していい。

 つまり、普通の人間にとっての科学的に判断をする場合、実際生活上のことである。生活者の科学的判断は科学的な証明ではないが、それが生活力だと思う。クルーズ船は感染が広がるが、飛行機ではめったなことでは感染は起きない。野外では感染しないが、キャバレーでは感染が起こる。コロナに感染しにくい生活は自分なりに判断できる。

 しかし、こういうことは専門家や政治家は科学的な証明がない以上発言が出来ない。結果が出てからの後出しじゃんけんだけになる。今になって言われてもどんなもんか。後出し専門家が実際の生活には役立たないという事になる。実際の生活は安全確率で生きている。科学的に100%の安全などと言えば、暮らせない。だから、まず大丈夫でいいのだ。

 放射線の問題でもそうであった。放射能の100%の安全証明はできない。畑に入れるカリ肥料が危険だから使うななどと言う人がいたくらいだ。しかし、普通の生活上このぐらいまではほぼ大丈夫。このほぼ大丈夫で生きるのが生活である。このほぼ大丈夫は自分が決めるのだ。人によって大きな差があるのもあたりまえだ。だから、大丈夫には違いがある。人に押しつけてはならない。暮らしにくい人もいるのが普通のことになる。

 このほぼのバランスが良い人が生活力の高い人だ。例えば毎日自動車に乗っていて、交通事故を一度も起こしたことのない人がいる。転んでけがなどしたことがない人がいる。変なものを食べてお腹を壊したことがない。いろんな意味で生活力のある人はいるものだ。

 科学者が生活力があるかと言うとそうでもない、感染症の専門家が南極旅行をしたときに、南極では科学的にウイルスがいないのだから、風邪をひかないと言って薄着で出歩いて風邪をひいたそうだ。生活力のある人はウイルスがいなくとも、南極では寒いから薄着はしない。

 自粛はしても委縮はしない。できる限り予定通りに生活しようと考えている。コロナ警察からはオイこらと言われるかもしれないが、科学的に暮らそうと思う。科学に暮らすのではなく、科学的にであるが。

 今回、小田原に来て、11日間農作業をした。小田原は神奈川県でも安全な場所だ。病院での集団感染は起きたが、街での感染はほぼない。神奈川県の感染危険度マップでも、安全性が高い地域とされている。農作業だけで、ほとんど久野を出ない。野外での感染の可能性は極めて少ないと考えている。感染しないと確信している。

 石垣島に戻りこの後、1週間は完全自粛する。2週間してからも、人と会う事は極力避ける。と言ってもこれは石垣島ではそもそも不要不急の生活スタイルであるのだから、通常通りとも言える。絵を描く生活は一人で出来るので、大満足である。

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