第9回 水彩画 日曜展示

   

第9回 水彩画 日曜展示






28,「崎枝の海と空」①
中判全紙 ファブリーのロール紙
2020.6








29,「崎枝の海と空」 ②
中判全紙 ファブリーのロール紙
2020.6





30,「崎枝の海と空」 ③
中判全紙 ファブリーのロール紙
2020.6



 随分と絵を描く技術が偏っているようだ。要領の良い人なら、高校生か美術学校に行っている頃に身につけているようなことを、70歳になった今になって学習している。ああこういうことだったかと、つまらないことに感心している状況である。

 空の描き方でも、海の描き方でもきっとこうすればそれらしくなるという方法があるのだろう。ところが一般的なやり方から学ぶと言うことがなかった。自分の見え方は人の見つけた描き方とは違うだろうと思っていたからだ。それで、全く描く技術が偏ってしまったようだ。

 人間の見ているものの表現法は大差ないものらしいと言うことになる。そこで自分でやってみて、なるほどあの人のこの空の表現はこういうことだったのかと、画面を通して出会う事になる。今更ながら気付いている。実に基本的なことというか、ありきたりのことでもそうなのだ。

 空の描き方。海の描き方。水彩技法のこうやりなさいと言うようなところから進めれば、それなりにそう見えるという事になるのだろう。もちろんそれはそれで大変なのだろうが、私のやり方はその都度、手法を発見するというやり方である。その時に見えている世界をとらえるためには、いわゆる空の描き方を用いると、最後の所で見えている世界とは違う事になる。

 全く人より遠回りである。他の人の手際の良さに驚くばかりである。どうもやり方の要領がとんでもなく悪いわけだ。同じ問題を何回となく間違って、その末になるほどこうなのかと、人のやり方と同じようなことに到達することも良くある。と言って反省しているわけではない。

 ダメだったと言うことを、良かったと思っていると言うことになる。下手は絵の内、上手は絵の外とやはり思っているのだ。そう言った、熊谷守一氏はそういいながらも手法の画家である。下手なものの見方描き方を確立してしまった。私のようなヘタは、手法を受け付けない下手だ。絵はうまいとあれこれ抜け落ちてしまう。

 ゴッホのヘタが好きだ。上手くなりたい。立派な売れる絵が描きたい。ところが、ゴッホは見えている世界が違うから、独特の世界観に向うしかなかった。絵を描こうとしての下手ぐらいの方が、その人が伝わってくる。この下手が、意識的であるとこれはこれで最悪いやらしい。

 絵はとても技術的なものだとは思う。良い絵が上手い絵である必要はない。品格が高ければいい。絵を描いていると、もうこの先はどうすればいいのか分からないということになる。その時に自分の見ている世界を凝視することだと思っている。その世界にどこまで近づいているのかだ。

 それだから止められない。やればダメになるだろうが、進むためにはやるしかない。それで当てもないことをやる。ところがもうダメだの先がある。描いてみるとダメなはずの先が続いている。そして、時には想像もしていなかった新しい世界を見せてくれる。

 絵が収まりが付く。もうこの先はないと、ダメだった先にすごい物がでてくる。このあたりが絵の不思議なところだ。一方向に気持ちよく完成に向かう絵もあるが、どうにもならない続きで、消したり洗ったり、あらゆることを試行錯誤した後に出てくる絵もある。どちらの絵の方が自分なのかは分からないが。

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