鳥インフルエンザ以来10年、政府は感染症対策に見向きもしなかった。
遠くに見える山の裾野当たりが、ゴルフ場が出来る場所だ。山の上にかすかに光って見える建物が、石垣島天文台である。すばらしい景観の場所だ。現状は農地である。行政が転用を進めている。現在牧草地が多い。パイナップルやサトウキビもある。環境破壊にならないように、ゴルフ場を作って貰いたいものだ。
10年前高病原性鳥インフルエンザの流行で、鶏の放し飼いが禁止された。それでは免疫力の強い鶏を育てることは出来ない。この処置には本気で反対した。抗議文や意見書を各所に出したのだが、全く政府は見向きもしてくれなかった。
そして、小さな養鶏場が経営できなくなるような馬鹿なことばかりを押しつけてきた。例えば、雀が入れないようにしろ。ネズミが入れないようにしろ。野外の草は与えてはならない。自然養鶏においては不可能なことだ。嫌がらせとしか思えなかった。家畜保健所の方はこの間違った政策に対して、何ら科学的な説明を出来なかった。
その背景にあるのは国際競争力のある養鶏業一本である。大企業養鶏を保護するために、中小の養鶏場虐めをしたとしか思えなかった。徹底した消毒をする。規模はより巨大化して行く。卵は物価の優等生。現状では物価は上がる方が良いと言われているが。この方向こそ、鳥インフルエンザを誘発する道だ。新しい感染症を生み出す畜産である。
鳥インフルエンザが鶏から、豚に感染する。そこで、ウイルスは変異してヒトヒト感染をするウイルスに変異する。中国の混沌とした野生と巨大畜産の隣り合わせのせめぎ合い。こうして、新しい感染症が登場してきたのだ。これが中国という新ウイルス発生大国である。
新型ウイルスの危険を訴えるためにこのブログを始めたようなものだった。そしておりに触れて、その主張を繰り返してきたのだが、政府は何の反省もなく、巨大養鶏場を守る政策を繰り返すだけだった。あまりのことに、養鶏を止めることになった面もある。
そして予想していたとおり、SARS、MERS、今度のコロナウイルスの感染が連続的に起きたのだ。予測したものとは少し形は違ったが、感染症が人類を襲うと言う図式は同じである。政府はその準備をしなければ行けなかったのだ。
コロナウイルス対応には政府には組織としての準備がまるで無かった。重要な初期対応が出来なかった。幸い、ファクターXで日本では余り広がらずにすんでいる。政府の一番の失敗は、新しい感染症が必ず来る。と言う警告に全く耳を傾けなかったところにある。来ることは専門家では常識的なことだった。どうして日本政府は目先のことに追われて、大きな安全保障が考えられないのか。
政府は今になって、新型感染症対策委員会を廃止して、政府の中に対応する専門家会議を作ることになった。いままで、対応をしてきた組織の何が行けなかったのかよく分からないし、説明もない。今更であるし、これでは専門家委員会のメンバーも寝耳に水と言うことで、やりきれないだろう。
政府は専門家会議の議事録は残していない。その上に、決定に対する責任を政府はとりたくない。そして、都合が悪くなれば、ついに廃止である。アベ政権のデタラメさ加減は尽きるところがない。これほどひどい政府を未だかつて見たことがない。
政治家が科学に無知のために、相手にされないのは仕方ないだろう。悔しいならば、もっと日ごろから勉強をすべきだ。学者は学者の立場で、科学的な見解を述べればいいことなのだ。ところが、未知の新型ウイルスには科学的には専門家であったとしても分からないことが出てくる。科学者としては可能性を述べるだけだ。決断は政府が行う。
ところが政府が、特にアベ発言が余りに無責任できれい事なのだ。これでは専門家会議が怖くなるわけだ。例えば第2波のような問題が出てきたら、専門家会議での指示通り動いた結果だと言い出しかねない。政府には政治家としての覚悟がないのだ。
政府には都合の良いこと以外には聞く耳がないのだ。新型インフルエンザ後も、いくつか起きたSARSやMARSなどの新型ウイルス感染症に対しても対応を変えることはなかった。そしてついに新型コロナの大流行が起きた。日本政府は対応の組織を作ることなく、マニュアルもないままにその場しのぎを始めた。その結果病院のマスクさえ底をついた。政府は国民に対して謝罪すべきことだ。
高病原性鳥インフルエンザについて、養鶏業者としていろいろ勉強をした。素人なりにウイルスと免疫の関係について理解をした。ウイルスというものは無限に存在しているが、巧みに生き物と共存しているらしいと言うことだ。ウイルスもいなくならないし、生き物も生存を続けている。自然界では折り合いを付けて存在している。
ウイルスが生きものに感染する。その生き物がウイルスで死んでしまうのではウイルス自体も消える。当然そういうウイルスもいたのだろうが、生きているウイルスというものは巧みに生き物との関係を成立させているものなのだ。それが生き物の免疫システムというものを作り出している。
ところが、ウイルスというものは簡単に変異する傾向がある。例えば生き物の中で、10の違った個体に感染を繰り返すと、その間に最初のウイルスと、10番目のウイルスとは違う性格のものになっている可能性がある。ウイルスにはこうした変異をする性質がある。
感染の連鎖と言うことは、ウイルスが病原性を深刻化する可能性がある。人間の感染の連鎖でもそうした可能性がある。ヨーロッパにコロナウイルスが広がる過程で、病原性が強まったのではないかと言う意見がある。それがアジアに戻り、再度の感染になったというのだ。大規模畜産のように環境で、何万回もの感染が繰り返されれば、ウイルスは病原性を高める可能性は高い。
変異は違う宿主に入ったことで起こることもあれば、例えば放射線のような刺激を受けること。あるいは抗生物質のような物質と出合うことなどで、変異をして行く。未知の化学合成物質との出会いは変異の原因になるだろう。この変異の課程でヒトヒト感染をしやすいウイルスが登場することがある。
そうして突然宿主を死に至らしめるような性格に変異することもある。今回のコロナウイルスの場合、コウモリにいたウイルスが変異したものらしいと言うことだ。直接人に感染したというより、コウモリから、何らかの小動物に感染をして、ヒトヒト感染をしやすい性格を持った変異が起きた可能性が高いのだろう。
これと同じようなことは、いくらでも自然界には起こりうることだ。しかも、自然界にも化学物質の汚染が広がっている。化学物質を体内に取り入れた生物が体内のウイルスを変異させる可能性も出てくる。つまり、今や人間が感染をする可能性のあるウイルスは次々と出現してくる可能性が高まっている。
どうすればいいかと言えば、化学合成物質などで自然を汚染させない。動物を一カ所で大量に飼うような畜産は止める。抗生物質の使用を控える。むやみに自然界を撹乱させない。こういうことを地道に行い、自然界の中で人間が折り合いを付けるほかない。
しかし人間にはそれが出来ないだろう。快適な暮らしを求める人間の方角の先には新型の感染症がある。分かっていてもできないと考えざるえない。残念なことだが、そう考えて生きるほかない。ある程度孤立している生きることが、当分の間の人間の生き方になる。新しい人間の苦悩である。
これからの人間は時々ひどい感染症の繰り返される世界に生きると言うことだろう。感染症で死ぬことも有ると思い生きるほか無い。都会というものはなくなるのかもしれない。ヒトヒトが濃厚接触する機会は減少するだろう。文化そのものが変容していく。もちろん人間はすぐ忘れるから、何度も感染症を繰り返しながら、自ずとそうした暮らしに変わって行くのだろう。
新型ウイルス感染症に対する医学的な対応は生まれるののだろうか。ワクチンによる対応はあくまで対処療法である。ウイルスが登場して、ワクチンが作られる。インフルエンザワクチンでも、完璧ではない。ウイルスが変わればワクチンは無意味化する。今回のウイルスはワクチン対応は極めて難しいように見える。医学はワクチンや化学薬品以外の対応方法を見つけることが出来るのだろうか。