水彩画の見ると言うことについて

   


 遠くに見えているのは竹富島である。まるでニラカナイのように見える。理想の世界である。20日に行われた、感染検査では14名全員が陰性であった。一番濃厚接触と思われる人だから、まずは良かった。

 コメントに「自然を飽きることなく見つめている」と言うことを書いてくれた人がいる。過分なお言葉であるが、当たっている。好きな風景を見ていれば飽きることがない。考えてみれば不思議なことである。みる喜びと言うことなのだと思う。

 絵を描くという前にその場所をよくよくみたいと言うことは確かに強い。では見る喜びと言うことは一体何なのかと考える。これは大学の時の美術部の仲間だった、Uさんが言ったこととして今も記憶に残っている。見る喜びを深めると言うことを言われた。

 何十年も考えてきたことだ。見ると言うことには3つあると言っていた人がいる。みるには「見る。診る。観る。」の3つがあるというのだ。絵を描くときのみるは観るである。これは思想を持ち対峙してみていると言う意味になる。たんぼをみるのは診るである。

 カンと言う言葉にはもう一つの側面として、「感、勘、観」の意味の違いがある。絵は感じて描くという意味では感であるが、感じただけでは十分でなく、それが世界観というような観念にまで高められなければならない感じ方になる。

 絵を描くためにはみて、理解して、それを思想にまで高めなければ描けないと言うことになる。勘で絵を描いている人から見れば、随分ややこしいことを言う奴である。そんなことを言っている間に描けばいいんだというのが、勘でやっている人の主張だろう。

 いっぽう感じたものを表現すればいいという人も絵を描く人には多い。感性の優れた感覚派である。感性が図抜けているので、理屈がいらないというタイプである。ボナールなどそうなのだろう。ボナールは一瞬みただけで再現出来る特殊な能力があったという。

 風景を見て美しいとは誰もが感じる。しかし、この美しいというものには人それぞれであり、同じ人でもその人の成長によって、美しさの内容が変わる。美しいと思うないようには各個人の人間が関わっている。

 絶景と言うことが最近よく言われるが、ここでの美しさは自然の驚異的姿を現している場合だろう。絶対的な風景。他には類を見ないほど超絶的な風景という意味になる。これは絶景という言葉を厳密に言う場合である。最近はとても美しい景色と言うぐらいの意味で絶景という言葉を使うことも多い。

 今は絶景を描きたいとは少しも思わない。風景を描き始めた頃、美しいと感じたところを描くことにした。美しいと何故感じるのかが不思議で、それが分かるまでその感覚に従ってみようと考えた。自分の美しいに従おうと思った。その頃描いた場所は大体写真家が良く写真を撮るような場所だった。

 描いていると写真の愛好家が3脚を並べるのでびっくりしたことが何度もある。どうもその場所は写真雑誌に風景写真を撮る良い場所として紹介されているというようなことだった。簡単に言えば、通俗的な場所である。風呂屋の絵のような場所だ。

 通俗的であろうがなかろうが、美しいと思う気持ちに従うだけにしていた。そうして全国を歩き回った。北海道から沖縄まで、日本の美しい場所で行ったことがないところはないくらいになった。国立公園シリーズという絵があり、国立公園のすべてを有名画家が描いたものがある。

 そのすべての描いた写生地を探し歩いた。そしてその場所で描いてみた。そうしたことを20年ぐらいは続けた。40代から50代はそんな感じであった。そのうち、描きたいという場所に変化が産まれた。自分がやっている田んぼが美しく見えるようになってきたのだ。

 田んぼの生育の観察を続けているうちに、イネをよくよく診ると言う習慣になった。葉の色を診ておおよそ根の状態を想像できるようになった。土壌の状態、水の様子。今イネは何を欲しているのか。そういうことを観察し理解をした。

 毎日毎日イネを見続けているうちに田んぼというものがよく見えるようになった。すると、その美しさは自然の美しさとは違う、自然と関わるものの美しさのようなものが見えるようになった。ああこれを描いてみたい。美しさを感じる何かが変化をした。

 美しい田んぼや畑を探して描くように徐々に変わっていた。それが意識が明確になったのは原発事故で、一度絵が描けなくなった後のことだ。海が怖くなり診ることが出来なかった。今度のコロナ非常事態では絵はドンドン描ける。むしろ今描かなくてはならないという気持ちがわいてきて、絵を描く勢いが強い。

 見ると言うことを確認するために描いてみると言うことがある。私が描いている場所は畑か、田んぼがあり、そこを俯瞰できる場所である。俯瞰してみることで大きな耕作地を取り囲む自然との関わりが見えるからだ。この空間の醸し出すモヤモヤしたものを捉えたい。

 美しい風景が発する炎のような力満ちる感じである。何なのかと思う。どこにでもあるわけではなく。ここぞという場所に見えてくる。この見えてくる何者かを描いてみた。つまりこの描いてみたいは診ているものを確認したい。あるいは自分のものにしたいという気持ちなのだろう。

 空間の形が俯瞰のようになるのは生まれ育った甲府盆地を見下ろす、藤垈の向昌院からの空間の感覚のような気がしている。グアーンと意識がグライダーで空間に飛び立つような感覚である。

 こうした特別な場所にであうと、見えているのだから描けるはずだと思う。見えているものが描けないはずがない。ところが絵にしてみるとかなりの部分が抜け落ちている。技術的な問題も大きいというのが、ここ1年でわかったことだ。大分水彩技術を練習した。

 描くと言うことで、自分のみているを深めていると言ってもいいのかもしれない。見ているだけではいられないところが、私という人間の浅ましさなのだろう。観ているだけに至るのが道である。ところが乞食禅の私は観たものを記したいのである。

 そんなことが出来るのかどうか。あと10年描けば画面に出来るかもしれないと。今も前の絵よりはましだと思える。前より進みながら描ければ、たいした能力がないとしても、絵に生きたと言う証にはなる。絵を描いていれば、天性のものに差があることが分かる。

 ただ、私ほど田んぼを診たものは居ないだろう。自給自足の標としての絵というものが出来れば本望である。道は遠いいが底に向かっている意識はある。

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