街道を行く 沖縄・先島への道 司馬遼太郎

   



 与那国島で二冊の本を買ってきた。与那国の空港には10軒ほどのお店がある。レストランもある。島で一番大きいレストランかもしれない。本屋さんもあるのだ。本屋さんと言っても、レンタカー屋さんの店先に本のコーナーだけの本屋さんだ。

 司馬遼太郎の「街道を行くシリーズの、先島への道」のなかにこの本屋さんのことが書いてあった。そこで、池間栄三さんの本を買おうと決めていた。司馬遼太郎さんが与那国島に来た1972年当時は与那国の歴史をまとめられた池間栄三氏の娘さんの苗さんがそこで販売をされていたそうだ。栄三氏は本を完成する前に亡くなられており、娘さんの池間苗さんが原稿を整理して出版された本だ。

 本を作られた苗さんがそこで本を売られているという姿に惹きつけられ、本の理想の姿だと司馬遼太郎は書いている。後に苗さんは与那国民俗資料館を作られて、訪れる人に与那国のことを語られていたらしい。その話ぶりがあまりにも魅力的なもので、わざわざお話を聞きに与那国を訪れる人もいたらしい。今はその資料館も廃館になった。

 もう一冊の本は「よみがえるドゥナン」米城恵著やいま文庫15である。この本はふるい写真と聞き書きが添えてある。与那国島がいかにふるい民俗の宝庫の島であったのかと言うことが分かる。この二冊を読みながら、民俗と伝説の島与那国島を歩いていた。

 司馬遼太郎氏は歴史小説家である。街道を行くという週刊朝日に連載したシリーズがある。連載されていたとき読んだことはなかった。どちらかというと、歴史を英雄の視線から見る司馬遼太郎は避けていた。

 そのご、須田克太氏の絵で、司馬遼太郎に同行して絵を描いていた街道を行くシリーズがあったのかと知ったて驚いた。須田克太氏は一流の画家だ。いい絵が沢山ある。まだご存命の時に個展を見せて頂き、拝顔したことがある。トレードマークのジーンズのつなぎを着ていた。全く飾らない自然体の方であった。

 北海道にある須田克太美術館で見た絵が、街道を行くのさし絵だったと言うことで司馬遼太郎さんと一緒に旅をしていたことを知った。須田克太さんという画家は日本の宝のような人だ。その人と司馬遼太郎さんは一緒に旅をしたのかと思って、ずいぶん贅沢な旅だったと思う。私にしてみると、須田克太の街道を行くの絵のシリーズに、コメントを書いた人が司馬遼太郎という位置づけである。

 世間ではそうでないのは十分承知だが。世間が須田克太氏の意味をどれだけ分かっていたのだろうかと思うと残念である。日本の近代画家10人に入る人だ。それでも世間での扱いは司馬遼太郎ほどではなかったのかもしれない。ちょっとすねた気分がある。

 江戸時代を評価する私としては、司馬遼太郎の明治維新の評価など読みたくもなかった。武士中心の歴史観には受け入れがたいものがあった。武士の歴史など日本の歴史の尾ひれだと思っているので、司馬遼太郎の英雄伝のようなものには歴史小説として興味がない。

 日本人の本筋は百姓である。9割は百姓なのだから、武士というのは公務員のようなものだ。現代の公務員の国民に対する比率はやはり1割。警察官や自衛官。司法や行政関係。あるいは税務署。文化を担っていたのは武士というわけではなく日本人すべてである。武士を必要以上に持ち上げたのは明治時代のゆがみである。

 石垣島の山田書店で立ち読みをしていたら、司馬遼太郎が八重山のことが書いている本がある。さすがにどんな見方をしているものなものかと買った。読んでみてさすがに視点の良いところがある。先入観で拒否しては行けないものだとは思った。

 八重山の人が笑いながら人と話すというのだ。私はこれを八重山の漫画文化と書いてきた。人を笑わす文化。これは全く私の感想と同じなのだ。八重山ではよそからの人との交流が歴史的に多かったからだと思っている。いつも外部から強力なものが訪れる。それをかわしながら、自分というものを表現してきたのが八重山の人ではないかと考えている。

 八重山の人は実にしっかりしている。都会暮らしの人のように厚かましくない。少し恥ずかしがり屋なので、最初とっつきにくい印象がある。しかし、自分というものが確立した人が沢山いる。自分があるから人と笑って接することが出来る。人前での挨拶をそれは見事にこなす。

 多くの人が笑って人と接してくれる。フランスの人は初対面で笑うと言うことはまずなかった。石垣の人は生活が地に足がついていて、余裕があるとも言える。それは石垣のユーモラスな世界観とも近い。漫画シーサーに代表されるものだ。笑わすことが一番大切なことなのだ。死者の国から来るあんがまと言う漫才のようなものがあるのだが、その芸能はまさに漫才師である。

 ただ全体としては、石垣島のことをよく見ているとは言えない。石垣の人が読めば私以上にそう感じていると思う。赤瓦の家が無く、四角いコンクリートの家だけだと書いている。そんなことはない。歩けば結構ふるい八重山の赤瓦の家はある。今もあるのだから、50年前はもっとあったはずだ。

 「よみがえるドゥナン」の中に人頭税のことが書かれている。人頭税は過酷で、時間までに田んぼに集まれなかった人を殺害するような人減らしがあったと言う伝説。あるいは妊婦を崖の上から飛ばして殺害したという伝説が書かれている。

 沖縄では人頭税のことが過酷と盛んに書かれているが、腑に落ちないことがままある。税金には農地の面積当たりと、人数割りとがあり、八重山は上布で物納するのだから、人数割りの税金だったと言うことに過ぎない。人頭税と言う税体系を圧政の説明に使うのは違う。税金が高いとすれば、一人当たりの納税額である。

 人頭では15歳から50歳までの男ということになっていて、与那国で150人というように書かれている。かなり緻密に数えられたはずである。地租であれば、上、中、下田に分けられて徴税されていた。人数で決めるということはふるい税制では当たり前のことだ。身長で決められたと言うことも出ているが、これも伝説に過ぎないと考える。要するに成人男子と言うことだろう。

 150人に税金をかけるのだから、殺して減らしてしまうと言うことは徴税側としては困る。住民側が人数を減らしたところで、一人当たりの税額は変わらない。これは地租とは違うと言うことになる。私はこうした人減らし伝説が与那国島にあったのは、島が天国のように暮らしよかったからだと思っている。厳しさを強調したかったのは税率を下げたいという思いはあったかもしれない。

 もし、与那国島で人頭税割り当てが150人だとすると、人口は500人ぐらいだったと思われる。与那国島には田んぼは120町歩ある。1200人が自給が可能な島である。お米ではなく、上布を物納したともあるが、お米や粟を物納したという話もある。正確な納税割りはよく分からない。豊かな漁場も沿岸にある。

 伝説の背景にあるものは少しでも税金を減らすために税を取られないように、厳しさを強調していたという気がする。与那国であれば、島津藩の搾取、琉球王朝の搾取頭2重の支配がある。

 人頭税が過酷になったのは島津藩時代とされるが、実際は明治時代の方がさらに過酷と考えた方がいいと思う。東北の飢饉などまさに明治が最悪である。納税が過酷だ、生活苦だという伝説がどこにも残されているが、私は違うと考えている。

 「百姓共をば、死なぬように生きぬようにと合点いたし収納申し付くるよう」。『落穂集』に見る徳川家康の言葉だとすると。百姓を殺してはならないという考えである。納税を増やすためには百姓が生きていけるようにしなければ、納税は増えないという考えである。実際に百姓を定着させておくのは大変だったのだ。良い政治ごとが行われていなければ、百姓はいなくなってしまうのだ。江戸時代は同じであることが大切だった。その意味で百姓よりむしろ下級武士が大変であった。

 殺してしまうほどの納税を強いたのは、明治政府である。富国強兵の結果である。江戸時代の納税割合は明治時代よりも低いというのは確認されていることだ。八重山の場合、中間搾取があったことは想像されるが、これもひどい話ばかりが強調されていて、真に受けない方がいいと思う。

 与那国を歩きながらとても寂しかった。与那国ほど豊になる可能性を秘めた島が、何故か寂しい島になって行こうとしている。日本人の暮らしの方向の間違いなのではないか。自衛隊が来て与那国島に明るい方向が生まれたとは到底思えない空気だった。

 台湾と関係の深かった与那国の歴史を考えると、与那国を対中国の善戦にしようという発想がどういう歪んだ思想なのかと思う。与那国に防人になれと言うことはこういうことである。犠牲を強いているだけである。防人になりたい人などいるわけがない。人がいなくなるだけである。

 石垣島で思うことだが、大学レベルの教育の仕組みを作ることである。石垣島にいる人材を生かして、充分に大学レベルの教育が出来るはずである。私塾である。各地方に私塾を作る必要がある。石垣島大学を作るといい。養鶏と田んぼなら何か伝えられる。

 

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