身の丈を知れという、悲しい日本社会
戦後の日本人はいわゆる身の丈を打ち破って生きたのだと思う。身分や出自、出身地や経済的な限界を打ち破り生きてきた。それが戦後社会の高度成長をもたらしたのだと思う。身体を使って働けば、誰でもそれなりに生きることができる社会がそこまで来ていた。
高度成長期の日本では、努力が報われる社会が近づいたかのような幻想を持てたのだ。肉体労働を嫌う風潮も今ほどはなく、農業者も出稼ぎをしながらも、都会の生活水準に追いついて行くことになった。
ところが日本社会全体が停滞期に入り、意識が下り坂の日本になった。階層化社会と言える状況にある。まさか、身の丈を考えろ等という発言が文科大臣から出るとは思わなかった。言葉を間違えたというより、そういう社会に日本がなっていると思うべきだろう。
「身の丈で生きろ」その裏には「高望みはするな」の意味がある。このように文科大臣が憲法違反の発言をしたのだ。憲法は「すべての国民はその能力に応じて、等しく教育を受ける権利を有する」としているのだ。身の丈ではなく、等しく教育を受ける権利があるとしている。
多分文科大臣は日本の貧困の現実感じていないのだと思う。文科大臣だけではなく、保守系の政治家が成功者として君臨する社会になってしまったのではないだろうか。実現したい日本社会があると言うより、自民党という一流企業に就職したような姿に見える。
日本には深刻な貧困がある。そのことを情報としては国会議員なら知っているのだろうが、実感が伴っていなかったのだろう。日本の貧困は社会の中に埋もれている。食事を充分にとれない子供が隠れている社会になっていることを、体感的には感じていない人が多数派なのだ。
それは日本が恥の文化の国ということもある。また、貧困自己責任論が広がっている事にもよる。自分が悪いからこうなっているという後ろめたさが、貧困を社会から見えなくしている。例えば離婚した自分が悪いから、貧困に陥ち入っても仕方が無いというような意識があるのかもしれない。
日本の子供や学生の6人に1人(16%)は貧困家庭で育っている。一人親の世帯に限ると55%が貧困家庭なのだ。高等学校でいえば一クラスに必ず5,6人は貧困状態にあるのだ。受験すること自体が経済的に困難な家庭である。
こうした格差社会の現実を文科大臣が全く理解していなかったのだろう。もし知っていながら、身の丈に応じろと主張したのであれば、さらに悪質だ。少なくともお金がないので、試験を受けることがギリギリであると言う人が居るということが、理解できないのであろうか。
こうした社会の下層の状態を知るような人は国会議員という上層階層にはほとんど居ないのだ。頑張ればどうにかなるのにという程度の認識しか持てない人たちなのだ。確かに日本は急激に豊かになった社会である。
そのために、多くの人が自分の若い頃は的な体験的感想から抜け出られないで居る。1960年代には苦学生という言葉があり、自力で大学に通っていた人が普通に居たのだ。頑張れば、生活費を自分で稼ぎながら、何とか大学に行けるという状況があったのだ。
ところが、学費がドンドン上がった。生活費も急激に上がった。アルバイトをしながら、自力だけで大学に行くようなことはほとんど不可能になって居るのではないだろうか。
現代社会でもかなりの数の人が、奨学金で大学に行くのだろう。だから、自力で大学に行けると主張する人も多く居るはずだ。それはあくまで自宅から大学に通えるという条件である。生活費すべてを自分で捻出しながら、大学に行かなければならない人も居る。大学に行くには自宅からでは通えない人はいくらでも居るのだ。
さらにいえば、親の生活費を助けながらでも大学に行けるのかというようなことになる。どのような家庭に生まれたとしても、行きたいのであれば大学には行けるという社会であって欲しいとおもう。もちろんそこまでして大学に行く必要があるかどうかは人によるし、別の問題である。
一切の条件を別にして、大学に行きたいと考えた人が、努力をすれば大学に行けるという、憲法が示す方角の日本社会を実現して欲しい。自給自足で生きるとしても大学へは行って良かったと思っている。
上層に位置する人が、下層の状態を想像できなくなった。そのために身の丈に従えというような、封建社会を思い起こさせるような発言が出てしまったのだろう。ついつい悪気がなくこんな発言が出たところに、実は日本の今の社会の実相が現われている。
上層階層である人の多くが、下層階層の人を努力の足りない人だという認識である。能力が不足の人をやはり努力不足の人だという認識である。もう少し努力してから発言しろということになる。確かにそうした状況がないわけではない。
しかし、現実には努力をしたくてもできない壁が生じている。それが、大学入試の民間委託の経費問題である。石垣島から受験をしようと考えれば、那覇まで行かなければならない。那覇まで行く費用はそれなりのものである。
受験費用を含めて、5万円は見なければならないだろう。これが英語受験のために生ずる新たな出費である。この新たな費用を国が負担してくれるなら問題は無い。身の丈に応じて払えというのだ。つまり無理ならば、止めろということである。
こういう状態は私が受験する頃には無かったことである。日本は当時の方が豊かなわけではない。学ぼうとするものには負担を軽減してくれていたのだ。戦後の社会では、努力すれば自力で大学で学べるという状態が、日本の社会の活力を生み出した。そしてその教育が日本の高度成長を生み出したのだ。
現在日本の教育の公的支出がGDPに占める比率は2.9%で、OECD(経済協力開発機構)加盟35か国中の35位と最下位だ。なんということか、韓国よりもかなり低いのだ。ダントツの最下位なのだ。これがまともな状況とは到底思えない。
日本は油断している内に身の丈社会に戻っていたのだ。封建的社会に逆行している。能力主義、拝金主義が当たり前のごとく発言されている。それは戦争での敗北とか、革命とかで、社会が逆転するような現象が80年もなかった結果なのだろう。
社会と言うものはつねに、既得権益が守られるようになるようだ。政治というものは常に弱者の目線を持たなければならないということだ。それを見失えば、社会は活力が無くなる。それが今の日本の下り坂なのだろう。