資本主義転換期の絵の在り方。

   

石垣島の美しい放牧地。島のかなりの面積が放牧地になっている。

 世界経済は限界に達しつつある。トランプの一国主義も、中国の国家資本主義も、一国主義になるという事は限界では無いだろうか。相手をつぶさなければ、成長できない世界なのだ。日本は新しい産業や、新しい魅力のある製品を生み出せるような、技術革新は生み出せなくなっている。

 かつて無い状況の中、日本が行うべき事はまずこの状況を認めることからではないか。そして、経済成長の無い中で、暮らしを安定させる社会構造を探ることだ。軍事力が無くとも、国家としての尊厳を維持して行ける道を探ることはできるはずだ。武力を捨てるという事ではなく、どうしたら専守防衛の武力が可能なのか。戦争というものが、経済戦争や情報戦争に変わる中で、新しい国の安全保障を考えなければならない。

 他者との競争では無く、自己革新の世界である。資本主義は他者との関わりばかりに目を奪われてしまう。生きると言うことの最終目的は他に求めることはできない。財力の豊かさでは無く、心の豊かさを求めることである。お金以外の価値を見つけることである。一人一人がお金よりも大切なことを見つける時代への転換ではないだろうか。
 と言っても全体の流れはますます、拝金主義が広がるに違いない。そういう時代の中で、自分自身の心豊かな生き方というものがどこにあるかを、流されないで見つけないとならないのだろう。

 人間が豊かに生きるという意味をそれぞれに発見しなければならない。お金があれば人生の目的がかなうと考えている人は、お金への依存心を捨てることができない。社会は落ちるところまで落ちなければ、新しい価値に進むことはできるものでは無い。しかし、個人としては社会と距離を置くことはできる。

 このまま資本主義が続かないことだけははっきりしている。自分だけが資本主義的成功者になると言うことは、より難易度が上がりつづけている。今後社会の下層に位置づけられる人たちが、資本主義的勝利者になると言うことは幻想である。資本主義が限界に近づくと、階級の固定化が起こる。

 競争社会の競争の条件がそもそも違うのである。下層のものも頑張れば、競争の勝利者になれるという社会は終わった。日本であれば、明治維新とか、敗戦とか、社会がひっくり返ったときが、競争をする条件が並んだときである。こういうときには新しい発想も生まれ安すい。

 持てるものと、待たないものでは、同じ競争にはならない。残念ながらそれを認めた上で、自分の生きる道を考える以外に無い。持てるものというものは才能を含めてなのかもしれない。芸術的感性というものは育ち方でほぼ決まっている。芸術の生まれない国では、どうにも生まれないものなのだ。何度か行った中国では当分芸術というものは生まれないと思った。日本もそういう国になってきたと言うことだ。

 この文化の余裕のような蓄積が、日本では急速に失われている。これは驚くほどの速さである。例えば、梅原龍三郎のような絵画が育つような土壌はもう無い。理解できるような鑑賞者がいない以上、現われることはないものなのだ。

 ではどうするかというところで、生まれているものが私絵画なのだ。私は勝手に私絵画と名乗ったのだが、実は商品絵画ではなく、私絵画を描いている人が大半なのだ。売れる売れないなど全く関係がないほとんどの人の絵。自分の絵を自分で評価し、自分の納得というものに至る。他者からの判断で自分の価値を決めるのでは無く、自分自身の進歩のために絵を描くと言うことを使う。

 絵が評価されるとか、絵が売れて生活ができる。こういうことは嬉しいことであるが、それに惑わされれば、絵を描いて生きると言うこと自体がとんでもないことになる。本当の鑑賞者がほとんど居なくなっている社会なのだ。まともな評論が失われているのだ。

 良い絵を自分で決めること以外にない。その自分の目を磨き上げる日々以外に無い。どれほど偉そうなことを書いたとしても、私の絵は目の前にある。どれだけのものであるかがすべて絵に出ているわけだ。自分の命がけである以上、ごまかしはできない。私の絵が商品絵画の真似事であれば、これほど恥ずかしいことはない。

 一枚描くごとに、新しい何かに気づかなければならない。発見が無ければならない。絵は一枚ごとに変わらなければダメだと思う。絵が停滞すると言うことは人間としての生き方が停滞したのだ。そうした自分という人間の革新のために絵を描いているとも言える。

 昨日分からなかったことが、今日は分かったかもしれないと言うこと。昨日できなかったことが今日はできたかもしれないと。絵を描くと言うことが自分を掘り下げることになっていなければならない。

 そうなれば、社会的評価以上の価値観を持つことができる。それは資本主義社会が終わろうとしているからである。終わろうとして、ゆがんでいる社会の価値観に影響されていたのでは、良く生きることが難しい。

 しかし、私絵画が孤立につながってはならない。孤立すれば人間はおかしなことになる。良い仲間を見つけると言うことだ。その姿勢を失えば、ただの偏屈になる。心を外に開いていなければ、人間はたちまちに病に陥る。閉じた心はより深い殻の中に入り込んで行く。これでは新しい発見が生まれる事は無くなる。
 水彩人の互評会はなんとなく、本音が出なかった。5分間で本音の議論をするなどという事は無理であろう。やはり本展の期間中に十分時間をかけて、互いの絵に対して意見を言わなければならない。その為に作った研究会が水彩人なのだ。

 

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